2023年03月23日

生天目の陣「歴史講演&真田忍軍演舞&トークショー}【その2】当日

11日(土)の歴史講演会、演舞は盛会となしました!10日〜14日に及ぶ交流(継続中ですが)😊
控えめに言っても凄かった、エンターテイメントにまで発展した今回は神回でした。
多くの発見があり、歴史を検証される皆様には本当に頭が下がります。🙏
土佐の武田家の始祖達の魂よ安らかなれ!

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会長あいさつ(岡林照壽)
 本日はお集まり頂き、誠にありがとうございます!。3月11日、この日は東日本大震災として刻まれておりますが、武田が天目山で滅びた日も3月11日(天正10年西暦1582年)、その時に天変地異も起こり大きな歴史も変わって行きました。その魂を弔いたいと思います。
生天目の陣、その天目山に生きた武田勝頼の家臣が称した言葉です。多くの武田、戦国武将の末裔が今まで近年まで全国で息を潜め、先祖が甲斐源氏武田であることを他言無用として来ました。近年になりインターネットが普及し、情報が飛び交う時代になり、ようやっと土佐の武田、勝頼の伝承を生かせる時代になり、その声に反応し全国(世界)の秘められた歴史が表に出ようとしております。これを通して、魂のつながりに感謝したいと思います。 今日は真田忍者研究会の伊与久松ヮ=Aそれから小山田信茂顕彰の小俣公司氏も大勢でこの土佐の勝頼の地に起こしいただきました。真田と小山田は勝頼の忠臣2つの忠臣方が来られるという奇跡です。野中兼山や谷秦山の武田家との関わりやどうやって勝頼が土佐に来たのか、そういったことを顕彰する会といたします。生天目の陣、開陣です!(略)」

仁淀川町教育長、黒川一彦様よりご挨拶
「(略)本日は生天目の陣歴史講演会が多くの来場者を迎え、このように盛大に開催されますことを心よりお喜び申し上げます。
(略 それぞのパネラーの方々のご紹介と労いの言葉をいただきました)またそれをいかに町おこしに繋げていくのか、今からワクワクしております。まだまだ歴史ロマンの範疇ではあるかもしれませんけれども、将来新たな発見があったり、また科学技術の発達により、ロマンから事実に何かしら変わることがあるかもしれません。そんな夢を抱きながら、本日のご講演を楽しみにしております(略)
結びに、本日の講演会が実り多きものとなり、1人でも多くの方に知っていただき、広がっていくことを期待いたしておりますともに
発表された方々、ご来場の皆様の益々のご活躍とご多幸をご祈念申し上げます」
 本当に丁寧なご紹介をいただき、また開会を円滑に繋いでいただき、誠に感謝いたします。
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さて、今回の目玉は真田忍軍の演舞と講演です。🐉
iyokusan.jpg伊与久松ヮ=B真田忍者研究会会長、伊能氏末裔、真田忍軍であられます。
忍術、武術、太極拳これらの研究と鍛錬、それを普及するため日々邁進。
また、歴史の調査やそのネットワーク作りにも励まれており、今回のような講演会が整いますのも、このお人あっての繋がり。
昨年の武田八幡宮創建1200年と、信玄公生誕500年という折に、神前でいただいたご縁がここに繋がっております。
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武田軍団の一角を担う密(三ツ)(忍者)武田24将の中に真田一族があり、武田の武を受け継いだ真田は勝頼公の時代にとくに発揮され、
密(三ツ者とも云われる)(忍者)は全国に散り、武田家の命脈を保つために工作をする、ルートを敷く。
なるほど、全国に敷かれた真田の忍あればこそ、土佐の勝頼もあるのではないかと考えられる。
さらには、秋山虎繁の末裔の方も相模の家に勝頼公が逃れる時にお泊めになったと語られたと、吾妻の古老の方が伊与久様へ伝えた、貴人(勝頼様?)を逃すため西へ船を出した話などなど。
うー興味深い!!
そのようなお話を聞くうちに、土佐の武田、系図に記される勝頼が落ち延びたルートというのにかなりのリアリティを感じました。
生き残るためのサバイバル術からの忍術の話の興味深く拝聴いたしました。
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演舞のド迫力!カッコイイ!ここはカメラマンを用意すべきだった。
1人での演舞でしたが素晴らしかったです。武田八幡宮で初めてお目にかかり、真田忍軍という存在を知りました。
それまでと忍者のイメージがガラリと変わりました。
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農具や杖を使っての演舞、こちらで用意した農具で美しく鋭い演舞に仕上げる、忍の技にシビれました。
農民なんかに扮して標的を仕留める、それにしても技の

鮮やかなこと
これらの農具や金剛杖は、うちの会員のものです ^^




🔶武田勝頼土佐の会、会長からは新たに系図から判明して来た次々の項目の説明と
「野中兼山と谷秦山の真実の罪」というタイトルで武田勝頼一族との関わりを説く。
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野中兼山と池きさの娘、野中婉、そして谷秦山、一族の悲劇に裏には、武田家との関わりが、
系図から武田家につながる背景を紐解く。こちらは、会長のブログで系図や内容が確認できます。こちらのブログでも詳細を加えて後にブログで何回かにわたり分かりやすく紹介します。
(会場では資料として配られ(有料で)配布されました。

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☆パネルディスカッション☆「戦国の歴史に関わる著名人を招いてのトークショー」
テーマ「武田勝頼土佐生存説と、町おこしについて!!」
トークショーでは、勝頼が土佐に来たルートや背景について、そして町おこしについて語り合う、
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まず、ここにお集まりいただいております、奇跡の面々!
真田信繁公(幸村)と小山田信茂は武田勝頼公の忠臣であり、四百年以上の時を超えて集ったという奇跡の組み合わせ、
それが真田氏小山田氏であります。❖
改めて、パネリストとして紹介しますのは、
真田忍者研究会会長、伊与久松ヮ=B
小山田信茂公顕彰会会長、小俣公司氏。
歴史図書や小説に幅広く活躍される、中津攸子先生。4回目の来町となります。
中津攸子は「日高見の国」「やさしい日本女性史入門」など幅広く歴史に関する図書を出されており、
この度は、武田勝頼が土佐に来たことを小説化して下さるとのこと、感激申し上げます
そして、最後の武田、武田勝頼回想記など数多くの出版を手掛けておられる、片岡昌一先生
コーディネーターは、坂本世津夫先生。愛媛大学社会連携推進機構教授(地域連携コーディネーター)をされ、
当会にも幾度となくお加わりいただき、歴史の裏と表についてよくお話をされ、今回もうまくまとめていただきました。

土佐に勝頼が逃れるのは単なる偶然ではなく、綿密に敷かれたルートであり、
徳川(現代の政権)へのカウンター勢力として機能すべく多くの者が動いたと、明智光秀は土佐に当然来ていて云々。。
香宗我部家は武田の直系であることから、中央とのネットワークのつなぎ役をやっていたであろうこと。。

まず勝頼が土佐へ来るまで、最後まで武田家を支え玉砕した土屋惣藏、勝頼逃亡を企て策略を手助けした小山田信茂公、武田家の終焉を演出した両名は命を投げ出し優秀の美としたのであり、本能寺の変で明智光秀が織田信長を討つ。ここには長曾我部、斎藤、土岐、朝廷説まである織田信長包囲網や、源平交代論まで交えまして驚くことばかりでした、自分の勉強不足を反省し、このご恩返しによりよい活動がして行こうと思います。
此度の内容のボリュームと濃さは、自分では言葉が足らないくらいです。

肝心の町おこしについては、伊与久先生からは、あっちには有って、こっちには無いもの、逆に、こっちには有って、あっちには無いもの、それを大事にする事、武田の里ネットワークをつないで行くことを皆で賑やかしていく事がこれからの時代には必要なのではないか賜りました。本当にそうであると思います!ここだけにあるものを発展させていく事は観光の強みになります。
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我が家もこのような云われがあるという家がは、どうぞ今こそ活動を共にしましょう!
武田のネットワークさらに深く土佐に浸透させましょう!一緒に!❖
さらに、吾川郡は安徳天皇のゆかりも深き社寺が多い、実は注目すべきところは多いです

これからの時代には、情報告発することは、データ蓄積となり、次世代の研究にさらなる驚きとロマンを与えてくれる事だろうと、
コーディネーターの坂本先生が仰ったとおり、本当にすごい日本の姿が見えてくる時代。まだそれを楽しむ時代が来たのだと思えました。
🔷生天目の陣では、言葉どおりに、我々がこれから生きる道を確認いたしました。🔷

盛会に導いて下さった、中津攸子先生、真田忍者研究会の伊与久様、小山田信茂顕彰会の小俣会長を始め皆様、コーディネーターの坂本世津夫先生、片岡昌一先生、長宗我部顕彰会の皆様方、仁淀川町教育長黒川一彦様のお陰です。武田勝頼土佐の会の皆様ありがとうございます!
本当にありがとうございました!!!✨✨✨

この後は懇親会を行い、そこでは武田のネットワークが繋がれた事を喜び、互いの健闘を称えまして、顕彰をこれから更に深めていく事となりました。🍺 🙏
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【その3へ続く】


posted by makkun at 18:32| 高知 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

生天目の陣「歴史講演&真田忍軍演舞&トークショー}【その1】

生天目の陣(3月11日2023年)仁淀川町交流センター3Fにて開催されました。
10日(前日の会より掲載)
11日(土)の歴史ロマン講演会、演舞は盛会となしました!10日〜14日に及ぶ交流(継続中ですが)😊
控えめに言っても凄かった、エンターテイメントにまで発展した今回は神回でした。
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❖生天目(なばため)とは、天正10年(3月11日)天目山に敗れた武田の家臣が、
「天目山に生きる!」と称された言葉。
その生天目の第一陣を土佐にて狼煙を上げさせていただき、開幕です。

講演会の前日の10日(金曜日)この日に遠方各地から仁淀川町の大崎にご参画をいただきましたのは、
長野県諏訪より、真田忍者研修会会長の伊与久松ヮ=B山梨県大月市の小山田信茂公顕彰会のい小俣公司会長をはじめ6名の顕彰会の方々。
千葉県の女流作家である中津攸子先生。横浜から高知へ帰郷され、最後の武田などの著者である片岡昌一先生。
愛媛県にて地域連携コーディネーターである坂本世津夫先生。武田勝頼土佐の会の会員。

午後4時半に仁淀川町庁舎前に集合し、町長に表敬訪問。
大月市市長からの親書を小山田信茂公顕彰会の会長、小俣交司氏より、仁淀川町長、古味実氏に手渡し、今回の参会にて表敬訪問を果たしました。
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そして、各々は10日晩を過ごし、勝頼が土佐に来たという談義に花が咲きまして、
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✨11日の朝、武田勝頼公の土佐の墓、鳴玉神社に参ります。
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この墓は、勝頼公とその奥方様が眠る墓で、脇には当時から系図にも記される古い柿木が未だに実を付けます。
それから、一行は、武田信勝と、武田義男の墓へ。
系図から墓である石室に墓標を建立したのはここ十年の間に徐々に有志により行われて来ました。
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🔷そして、おなじみの勝頼資料館。
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会長がガイドをしてまわる定番です。ここには土佐で勝頼にまつわる資料コピーや写真、伝統文化の紹介などがされております。

🔸大崎八幡宮参拝。
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系図には、正八幡宮とされ、ご祭神には武田勝頼公が武田八幡宮より携えてきた木尊像などが祀られております。
一行はこちらに参拝をされました。遠く長野、山梨(信州、信濃)からのご参陣を勝頼公も喜んでおられるのではないかと、そう思うぐらいの優しい天候でした。🙏
小山田信茂公は、汚名を自らかぶろうとも、忠義を果たし、勝頼公を逃がす時間を作られた。
そう忠臣の中の忠臣であります。御神前と墓前にお参りされる姿に、古き絆がつながれた様には本当に感動いたしました。
武田家の忠臣である、真田氏、小山田氏、がこの地に参詣いただきましたことは、後の時代にも語り継がれるでしょう。


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そして、会場である仁淀川町交流センターへ。3月11日(土曜日)武田勝頼土佐の会の新たな陣の開幕です。
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posted by makkun at 13:25| 高知 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年03月05日

文化財調査その2、寺村観音堂「聖観音立像」2月18日

🌸同日に文化財調査が行われたのは、寺村の観音堂です。🌸
2月18日は寺村観音堂のご縁日でもあり、開帳も行われます。(お寺の背後には武田勝頼の三男である正晴の墓と稲荷神社があります)
地元では観音様と呼ばれ親しまれております。
 古くには諏訪様と呼ばれていたとのこと、このお寺が再建されるまではそのような事もあったと考えています。

現在の観音堂となる前は、
「流光山成福寺(りゅうこうざんせいふくじ」とされ、
長宗我部地検帳(国重要文化財)には成福寺と記されており、
さらに、土佐に残る3つの武田系図からもこの寺は武田勝頼により
天正13年(1585年)菩提寺として建立されたものだとされております。
仏像「聖観音立像(平安後期のもの)仁淀川町文化財指定」は勝頼が携えて来たご神体の1つだと伝わります。✨

✨ありがたくも、
ご縁で以前からこの場所を紹介をさせていただいておりました、
シンガーソングライターの菊池由布子さんからは、歌の奉納を
さらに、龍笛奏者の梅田恵様と、ご友人の仏師である吉田沙織様、ご両名による龍笛の奉納なども
いただき、なんと麗しくも厳かな響きで寺に響き渡り感激です。🎵
ご三名の演奏を心よろ感謝申し上げます!

🎸
IMG_9045.JPG菊池由布子様による歌とギターによる演奏、奉納。
歌詞にも気持ちが込められており、それを画像でお伝えできないのが残念です、ギターの弾き方も雰囲気にとても合っておりました。





🐲龍笛による雅楽の奏上。🐲
まさに龍の音、お二人の息が合って、凛とした厳かな雰囲気になり、
素敵な奉納をされました。皆様には感謝申し上げます。
ありがとうござました!!!(人''▽`)ありがとうございます☆

🔸この寺と武田勝頼にまつわることを、ご紹介
諏訪の観音院の中島住職様の調査で分かったこと
🔷お寺の名前の一致「龍光山正福寺=流光山成福寺」
🔷勝頼の母君の戒名の一致「乾福寺殿梅巖妙香大禅定尼」

諏訪の龍光山観音院は、昔は「龍光山正福寺」という名で存在してありました。
地元の庇護が受けられなくなった時代に現在の地から、川岸の駒沢という地に移転しております。

 そしてそこで新たに「龍光山昌福寺」という寺を建立しました。
それで現在のお堂は、その時の昌福寺が管理祈願所として存在していました。
 (観音院も昌福寺もご本尊様は同じ十一面観音です。)
正福寺→昌福寺にしたのは音を残しつつも、区別をするために漢字は一字変えたとも考えられます。

 更に現在、川岸の駒沢にある「龍光山昌福寺」には
武田勝頼から昌福寺住職に当てた「安堵状」が有り、
内容は「今まで昌福寺のものであったものは、これからも昌福寺のものである」
 この安堵状は現在は岡谷市指定文化財になっております。

推測ですが、
@「龍光正福寺」A「流光山成福寺」
現在の呼ばれ方は @リュウコウザンショウフクジ Aリュウコウザンジョウフクジ

漢音・呉音を組み合わせて読むと@「リュウコウザンセイフクジ」 A「リュウコウザンセイフクジ」
--------(中島住職様が考察されました)
なんと同じ音になりますexclamation×2つまり寺の名前は一致しているとの考察になります。
考察というよりも、これは確かに同じであると言っても過言ではございません。

 寺院の名称がキーワードとして繋がりを見せるとは、本当に驚くところでございます。ひらめき

 前回のブログでも書きましたが、
■諏訪の龍光山観音院(旧:正福寺)は勝頼の母君が過ごされた場所
■土佐の流光山成福寺にある厨子の1つは、諏訪にあるものと一セットの可能性がある考察
■「りゅうこうざん」という名称の一致、今回では寺の名前まで一致しました
■土佐の寺は勝頼が建立したものである
■寺の建ってある場所が、諏訪の観音院(旧正福寺)の建ってある場所を彷彿とさせ、仁淀川を見下ろす風景が、諏訪湖を見下ろす風景によく似ている。

系図に出てくる寺名や戒名から、これだけでも多くの繋がりが見いだされます。
また、これらの仏像は昔は神社のご神体であった可能性もあると言われております。そうですね、昔は神仏の区別は無かったと思いますので。


🔸系図とこの成福寺
武田家系図(土佐のです)には
人王始祖神武天皇より56代帝位・清和天皇から続く系図で代々鎮守府の将軍職ですが、
5代目の頼信が初めて甲斐守と出てきます。
7代目の義光(よしみつ)は武田家元祖也と書かれいて武田家の始祖とされております。
 その義光(よしみつ)を武田の元祖として、
武田家として2代目の義清(よしきよ)は甲斐国を領し、
義清は甲斐武田家の元祖となります。源義清(みなもとのよしきょ)とも呼びます。
土佐の系図には、この義清に初めて「成福寺贈号に云」と記されております。

12代の盛行の次男である時信の時代に安芸(広島)へ移り活躍し、
再び甲斐に帰り繁栄は武田信玄公に至ると記されております。
その何れの者にも「成福寺贈号と云」と記されております。

甲斐武田流11代信成には「快川和尚謚号云」が数か所記されております。「成福寺贈号と云」
19代の晴信(武田信玄公のことです)(法性院機山信玄)。
新善行寺に葬る、と系図には記されております。一般的な説では恵林寺に葬られています。
戒名は、恵林寺殿機山玄公大居士神儀

20代は武田勝頼(諏訪四郎・伊那四郎・(土佐では佐内、それから矢野民部、大崎玄番尉と変名)
戒名には成福」が含まれ戒名は右の通り「成福院殿栄秋道勝大居士」
さらに興味を引くのは、戒名の中に「秋道」と記されているからです。
秋道とは、勝頼が土佐に頼ったときの香宗我部家の初代が秋通(あきみち)であったので、
戒名にも示すことになったのかとも思います。

上記にキラキラで示した部分を説明します。
 「成福寺贈号と云」と「快川謚号に云」に共通するのは、甲斐源氏の武田です。
簡単に言えば、鎌倉時代から続く成福寺も、快川和尚も、甲斐源氏武田のルーツであり、
古より嫡流として関係が深いからです。
 それをさらに説明をするとですね。 なんと土佐に正当な末裔が続くのです。
成福寺は鎌倉にあり、貞永元年(1232年)、
鎌倉幕府の三代執権北條泰時の末男、北條泰次により成福寺は建立されております。
それから、血脈は子孫へ受け継がれ、
4代目の甲斐源氏の武田信義の時代に源頼朝を助けて、平家打倒に貢献しますが、勢力が大きくなりすぎて頼朝に力を削がれ、
子供の一条忠頼(武田嫡流)は鎌倉に呼び出され殺されます。
この一条忠頼(武田嫡流)の子供である秋通(武田嫡流)が1193年に土佐に派遣され、後の香宗我部家となり、
400年後勝頼が香宗我部池を頼り土佐に入ると系図に書かれています。✨
 
快川は快川 紹喜(かいせん じょうき)快川国師とも言われ、武田信玄に招かれて恵林寺に入寺した人物です。織田信長の子である信忠が甲斐に侵攻したときに武将の六角義定(ろっかく よしさだ)を匿ったことで他の僧侶たちち共に山門で炙り殺されることとなりました。
系図の最後に12名の戒名がありますが、土屋惣蔵が快川を含む4人の和尚に相談し報告されたことが記されており、信玄にも報告したのではないでしょうか?
 上記から、この系図が恵林寺の快川国師が作成に関与された痕跡を匂わします。


❖ここの文化財は「聖観音立像」町指定文化財の詳細❖
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文化財詳細
・(仁淀川町)吾川村寺村1559番地1の寺村観音堂に安置されている。
・像高 67.0センチメートル
・年代 平安時代’(高知女子大青木淳教授の調査を代表として関係各者からもそう評価されている)
・形状 ケヤキ材料一木造。宝髪、天冠台、白亳相をあしらわし、耳朶は環状とする。
   彫眼。三道彫出。
   左手は屈臀し、右手は垂下する。条帛、裳を付け、天衣を両膝に上下二段に渡し蓮肉上に立つ。
   頭部に後世化仏を嵌込んだと思われる穴が10カ所見える。
・構造 頭体幹部を通じて一本造。白亳嵌入。両肩先を寄せ、両手首先及び両足首先をつぎ、更に天衣右側面をつぐ。
・欠失部  白亳。持物。
・後補部 両肩先。両手首先。漆箔




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2023年03月03日

文化財調査研究、大崎八幡宮「正八幡宮御本尊御神体」2月18日

2023年2月18日の午前九時より、
文化財調査の見学等を、大崎八幡宮からスタート。参加者は20名近くになりました。

◆町指定の文化財に登録されているのは「木像の御神体」「神鏡一面」となります。

すぐに禊ぎ祓いをし、御正体の拝観を行うため、社殿の扉の奥、中心にある「12尊木像」(武田勝頼が、武田八幡宮から携えて来たものと古くから伝わります)を、調査員の見やすい場所に移し、
手鏡を3本と、武田菱の入った刀の鍔を1つを拝観していただきました。
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刀の鍔に関しては、初めてお見せするものとなります。これは宗教法人長生教の本院にあって、古来は八幡宮に納められたものではなかと思っています。
。時間があれば、中にある、奉納されたものを全部見てみたい、そんな気がしますね。御神体の中には、「玄蕃」「美都枝」など6〜7体の箱が納まっており、こちらも近く調査という名目を立てて拝観をしたいと思います。

◆神官系図(岡林神官の系図です。)右端がはじまりで、左に向けて読みます。
この3つの画像は右端の人物が、大崎玄蕃頭源勝頼建立とあり、
次に甲斐守岡林勝貞で、正八幡宮の初代神主と書かれてあります。

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こちらの系図の右端の部分から奉納されたものを、文字にすると。
「土佐國吾川郡片岡郷大崎村川井鎮座  正八幡宮 天正十四年丁亥六月十五日
 願主 大崎玄蕃頭源勝頼建立  神主 岡林甲斐守源勝貞
 右 八幡宮御神躯十二尊木像安置之  神鏡一面 弊串一本 奉納有之」

つまり、12尊木像と神鏡一面は確実に奉納されたものであることが分かります。
刀の鍔は、大崎家の子孫の方が奉納されたとの事で、大事に保管されております。

さて、この木像、後の時代に分祀されます。
この大崎八幡宮からすぐ直線にして500mほど東の葛原にある八幡宮に2体が分祀され、
大崎八幡宮には10体が現存しております。

◆神鏡一面につきましては、複数在る中のこれであろうとなったのは、
高野山に所蔵されている武田勝頼の肖像画の袂(たもと)の家紋と鏡の裏面に描かれている剣に花菱が一致することから、
天正十四年の建立時に武田家の御本尊と一緒に奉納されたものと考えられております。


大崎八幡宮と、武田八幡宮とは兄弟神社なのか(会長の考察)

資料伝承から
1,武田家系図から天正14年(旧暦6月15日)勝頼建立と検知
2,御神体は武田氏始祖(12体神像)武田家及び神官系図から検知
  ・御正体は勝頼自ら携えて来たと、高知県史から検知
  ・武田八幡宮からと口伝で伝わって来た。
  ・武田家系図の巻末に12名の名前と戒名が書かれていて、土屋惣蔵が報告した記述からして武田信玄公に報告したと思われる。
3,鳴玉神社(鳴王神社)に勝頼と三枝夫人(さえぐさふじん、みつぎふじん)が祀られる墓所がある。
4,寺村観音堂「流光山建立」と武田家系図の勝頼欄に記述あり。
  ・寺名は「流光山成福寺」地検帳から検知、信玄他の位牌があったと土佐の武田家系図に記述有り、今は処分されて無い。
  この系図の同欄に、正八幡宮建立と記述あり。
  ・勝頼の戒名 成福院殿榮秋道勝大禅定門 と武田家系図に記される。
5,神官系図に12尊木像 神鏡1面 弊串1本奉納安置とある。


この12尊木像には、それぞれの人物であると伝わります。
誤字があるかもしれません、ご指摘ください。

  名前        戒名
1 新羅三郎義光公   誠忠院殿榮國義徳大居士 甲斐源氏初代
2  同 御内室    壽仙院殿浄月輝白尼大姉
3 相模守義業公    浄光院殿静國壽勝大居士
4 治高兵衛義定公   大泉院殿香巖常寛大居士
5 武田刑部三郎義清公 清願院殿常春寂念大居士 二代目
6  義清 御内室   晴雲院殿深惠慈貞尼大姉
7 四郎兵衛義仲公   松林院殿瑞雲道清大居士
8 逸見黒源太清光公  白巖院殿觀正義深大居士 三代目
9 武田刑部三郎師光公 常觀院殿梅雲快旭大居士
10 同 御内室    西養院殿瑞雲貞琳尼大姉
11武田太郎信義公   瑞蓮院殿樻勝光邐大居士 甲斐武田四代目
12加義治郎成光公   無記名
  出典:武田勝頼土佐の会



同日の調査に続きます→
posted by makkun at 12:27| 高知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする