
大発見がいくつも有り、驚きました


以前より会長の知人が、津野町にある「大崎神社」を見せたいと、ご案内を頂いており、先日初めて足を運ぶ事となりました。


会長、県の西森さん、WEB管理の私の3人でお昼過ぎから葉山へ向かいました


まずは、ご案内を頂きました大崎Sさん宅にて、系図や大崎玄蕃(武田勝頼)に関する情報のお話をさせて頂きました。



その確信は何かと言いますと、大崎神社の存在、子孫が多く津野町には繁栄しておるという事です。
津野町は戦国時代、津野氏の治めるところであり、勝頼と津野氏は友好な関係にありました。
大崎さんの話しによると、津野の郷に初めて入って来た大崎氏の先祖が、川に甲斐の川と名付け、玄蕃踊り!などもこの地域では広く踊られていたという事です。
その者の名前は、大崎五郎。
そしてその者を大崎神社に今でも祀っているとの事です。

武田信勝は、今の仁淀川町大崎に落ち延びた時に「大崎五郎」と名を変えています。別の系図でも「小五郎」「吾郎」と書かれていたりもします。


「大阪夏の陣」へも大崎五郎(武田信勝)を含む4人が出兵したとの事です。
「貝の川」今ではこう書かれていますが、昔は(甲斐の川)と書かれ
葉山に流れる全ての川が「甲斐の川」と呼ばれておりました。
その証拠を得る事も出来ました

地検帳には、以前の川の名前として「甲斐の川」と確かに書かれております! 地検帳は長宗我部の命で作られた確かな地域の記録です。
大変重要な文献とされておる書物です。

その地検帳に書かれているのですからコレは間違いないでしょう



まず、今では大崎神社が合祀(あわせまつられ)ている地域の氏神様の神社に向かいました。

現在では過疎で、大崎神社を祀る人もほとんどいなくなり、老朽化が激しかった時に氏神神社にまとめて祀られた様です。
その後で、目的地である「大崎神社」へ案内して頂きました

集落から奥へ入り、山道を進むとその神社は姿を現しました。


今では大崎さんが管理しており、道中も、社の内外もキレイに掃除されておりました

大崎神社に手を合わせ中へ入るとまず中央に背の高い社、左右には、中央の社よりは小さな社が設けられており、
大崎さんのご好意で左側の社の中にある、立て札を拝見させて頂きました。その立て札には、「大崎五良右エ門」の名が入っていて年号も書かれておりました。「大崎五郎」と同一人物ですが、名前は当て字だそうです。

確かに!これは重要な史跡です

↓【右が大崎さん、左が会長】↓

そして神社の由来を読むと、大崎玄蕃を代々祀っており、神社の老朽化が激しく一族集まって会議をし今の神社に改築したとの事が書かれてありました。これはすごい発見です。
確かに、この地に勝頼の長男が来て、武田勝頼が祀られている!という足跡を発見できたのです。



武田勝頼の長男である、武田信勝は仁淀川町大崎に来て
「大崎五郎」と名を変える。
天正13年に長宗我部氏が秀吉に敗れて、土佐一国のみ許され
その時に、長宗我部元親の子供であり、津野氏の頭首である津野親忠(つのちかただ)は人質(ひとじち)として送られました。
この時に武田信勝(大崎五郎)は長宗我部の命で御家人として津野氏
に仕え、甲斐の川のと名付け、玄蕃踊りの振興も成し、大阪夏の陣へ出兵。大崎神社を建立し、大崎玄蕃(武田勝頼)を祀り後に山内氏が入ってきた事で、現在の仁淀川町大崎に帰郷し、今でも墓が大崎の小森でも祀られているという事になります。
※参考:関ヶ原の戦い(西暦1600年)〜大阪夏の陣(西暦1615年)
後に津野氏は滅び、その時の重要な書物などは殆ど処分されたとの事です。ですが、現在まで子孫達は別のものに書き残したり、様々な形でひっそりと伝えられて来ました。

集落の人たちと、大崎神社伝承の話しをする事も出来き実り多き調査となりました。


【今回の大発見
