2009年05月13日

由布姫の里諏訪に思いを馳せて

勝頼の母君【由布姫】ゆかりの長野県は諏訪湖西岸に位置する
龍光山観音院(通称:小坂観音院)より、
住職の中島様をはじめ、宮川さん、石川さんの御3名が、
高知県に在る勝頼の史跡を訪ねて来られました。

母君の供養をされておられます寺院より、また遠く長野から土佐に来て頂きまして、とてもありがたく思います。わーい(嬉しい顔)

龍光山観音院のホームページは
http://www.kannonin.or.jp/


 歴史公演会の時に静岡から来られた武田様のご縁で実現致しましてとても感謝しております。ぴかぴか(新しい)

  それでは5月12日の史跡を巡った報告をさせて頂きます。


勝頼公の墓

朝8時に、私を含む5人で、勝頼のお墓参りと鳴玉神社へ行きました。
神社に手を合わせまして、勝頼の墓前でおつとめを致しました。
0DSC09611.jpg0DSC09612.jpg

勝頼の母君の御供養をされている中島住職様、宮川様、石川様に経を上げて頂いた事は、誠に嬉しく光栄な事です。感慨深い気持ちでした。
すべての神社仏閣や墓前で、丁寧に拝礼される姿がとても印象に残っております。
 会長と諏訪から来られた御一行の記念写真
  0DSC09622.jpg



花菱の手鏡

また大崎八幡宮が建立された頃に奉納された花菱の手鏡を見て頂きました。私たちもあまり気づいてなかったのですが、当時としては素晴らしい技術が施されているとの事です。ふむふむ確かに装飾が美しい!かわいい
0DSC09629.jpg
外では、八幡宮の総代さんと会いました。
0DSC09625.jpg


大崎八幡宮(天正14年(1586年)勝頼が建立)

中島住職さんと、宮川さんが、八幡宮の社殿を見て
龍光山の彫り物や造りが本当にそっくりだと言っておられました。
私も興味が沸いて来ます。
 本日は特別に、文化財としても申請してある御神体を出させて頂きました。
勝頼自信が武田家御本尊として12体の木像を奉納され、約400年祀られております。
 01654.jpg


信勝と信房の墓
0DSC09630.jpg
勝頼の息子信勝(のぶかつ)と孫信房(のぶふさ)の墓参り
系図から、場所が確定される迄、誰の墓か分からずに祀られておりました。
 系図と聞き取り調査の結果、明らかに信勝と信房の墓である事が分かり、当会では史跡に認定しております。
0DSC09634.jpg
0DSC09638.jpg0DSC09640.jpg


車(セダン)農協で一旦トイレ休憩を取り、寺村の史跡へ向かいます。


寺村観音堂(流行山成福寺(跡))と勝頼の次男である正晴の墓

 町指定の文化財として観音像が現存しております。
ここは昔は、流光山成福寺(りゅうこうざんじょうふくじ)のあった場所です。今でも、流光山と書いた鐘(かね)が残されております。
鐘


 ひらめきここに到着して、中島住職さんが、龍光山観音院(りゅうこうざん、かんのんいん)のある場所にとても似ているとおっしゃいました。
0DSC09645.jpg
 諏訪湖を眼下に一望できる雰囲気と、ここの仁淀川を見る雰囲気がとても同じとの事です。この寺村の下は仁淀川流域の中でも特に川幅も広いし、深くなっています。それが湖をイメージさせるのかもしれませんね。
 そして、もうお分かりかと思いますが、どちらの寺の名前も読みは【りゅうこうざん】なのです。
更には、御本尊はどちらも観音様を祀っております。

勝頼は土佐に来て、流光山成福寺を菩提寺としました。
その名前の由来や、なぜこの場所にしたのかが、分かったような気がしますひらめき
 母君は、龍光山観音院で、過ごされ、子(勝頼)を授かり、病気の時はここで療養をされていたと言われております。
 勝頼は、その時の事を思い起こし、遙か諏訪の故郷に思いを馳せて
この寺村に菩提寺を造ったのであろうと考えられます。


特別にお堂の中に入らさせてもらい、拝見させて頂きました。


普段からここは厳重なセキュリティーで管理されており、文化財も安全に守られております。
0DSC09679.jpg0DSC09652.jpg0DSC09677.jpg
 中島さん、宮川さん共に驚かれていたのは、厨子(ずし)が、諏訪の龍光山観音院にあるものと、そっくりで、またその中身も含め、諏訪に2つあるのですが、3つで1セットであるものらしいのです。もしかして、その1つを勝頼が持ってきたのではないか?
との話しにもなりました。もしかすると、もしかするかもしれませんね

落ちのびる際に観音院から持って来た事は十分考えられます。

ひらめきそう考えると、
今までは寺村の観音堂(流光山成福寺)は、勝頼が菩提寺(先祖を祀る寺)として建立したという事のみが分かっていたのですが、建立された背景と勝頼の思い、諏訪への思いが明らかになるなと思います。
0DSC09669.jpg0DSC09657.jpg0DSC09653.jpg
宮川さんは仏像に大変詳しく、色々な事を教えて頂きましたぴかぴか(新しい)


勝頼の次男である正晴の墓前にて
0DSC09649.jpg


勝頼の娘、檮姫(ゆすひめ)の墓

越知町横畠栂の森へと向かいました。
0DSC09680.jpg
車がどんどんと山へ登って行くので、諏訪から来られた方は驚かれたかと思います。
見晴らしは本当に素晴らしい場所で、越知町の平地と、土佐の山々が見渡せる場所です。
ここに檮姫は祀られ、区長さんによって管理されています。

中島住職さんが、墓を見て、武田菱が入っているように見えるとの事だったので、よく見てみると、確かに石の白い筋が交差し菱形になっております。他の石にもそのように白い筋、菱が見られる事から、そういう石を選んで墓にしたのではないかと思われます。
0DSC09688.jpg0DSC09696.jpg0DSC09682.jpg
 これは発見だったと思います。目を変えるだけで様々な発見が有りました。

 そして系図にある目印となっている岩に登りました、この岩の下には空洞が有り、昔はお遍路さんが寝泊まりをする場所として使われておりました。
0DSC09704.jpg
 岩の上からの風景。なんとも最高の見晴らしです!
0DSC09706.jpg0DSC09711.jpg


史跡巡りはここで終え、帰路につきました。

中島さん、宮川さん、石川さん本当にありがとうございましたexclamation
私達にとっても大きな発見が沢山有りました。

今度は私たちが諏訪へ参り、母君【由布姫】の供養に参加したいと考えております。
 また来年は諏訪では御柱祭(おんばしらさい)が有り、とても賑わいまするんるん
土佐と諏訪の活発な交流を目指して、当会も全力でがんばります!



かわいい勝頼は土佐へ落ちのびて以来、その身分を明かす事を避けて今日までに至っております。

 もし武田勝頼だと分かってしまうと、多くの追っ手に命を狙われ、共に落ちのびて来た者だけでなく、かくまった者まで危険な目に遭わせてしまいます。その為、大崎玄蕃と名を変えて活躍されました。

 没して400年もの春秋を経る今、戦国のしがらみは消え失せ、ひた隠しにしてきたもう一つの勝頼の歴史が顔を覗かせる時代となりました。

時代の移り変わりと共に、何度も失いかけた重要な伝統や史跡。
奇跡的に残っておったと言う以外にありません。

 会を設立して以来、多くの謎が解け、キーワードがつながって行く事に関わる者皆が驚いております。

0DSC01644.jpg
posted by makkun at 12:07| 高知 ☁| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
当日は何かとお世話になりました。おかげさまで無事に帰りました。早速大変詳しくご報告いただきまして誠に有り難うございました。また、帰寺致しましてから「由布姫」の法号(戒名)を確認致しましたら、系図に書かれている法号(戒名)と一致していました。
その参考資料をメールに添付致しますのでご確認ください。なお、その他参考になると思われる資料なども追ってお送り致します。何卒宜しくお願い申し上げます。合掌
Posted by 中島宥明 at 2009年05月14日 12:49
先日はこちらこそ誠にお世話になりましたm(_ _)m

中島様からのお話しから多くの気づきがあり、今後の進展がさらに面白くなって参りました。感謝致します。
誠に有り難う御座いました。

「由布姫」の戒名がこちらの系図と一致するという事で、とても良いニュースであります(^^)
系図は古くから土佐に伝わるものなので、現在のように伝達方法も発達していなかった昔から一致しておるという事は、確かな証になります。

 また「由布姫」の詳細な資料をありがとうございます!

御詠歌の詞に姫の悲哀と、地区の人々の姫を慈しむ思いに心を打たれました。
 風林火山のドラマの中で、信玄と勘助と姫の存在が特に詳細に描かれておる事に感心し、毎週土曜日を楽しみにしておりました。とても大事な存在であると思います。
 
今後とも、どうぞ宜しくお願い致します。
Posted by 管理人岡林 at 2009年05月14日 22:56
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。