
武田勝頼の母君を祀られておる、龍光山観音院の中島住職様が来られてより、多くの発見が有りました。諏訪より得られた情報により、大きく進展致しました。とても感謝しております。


寺院名が一致しているかもしれないという事です!
住職様より送って頂いた、文章を転載させて頂きます。
「龍光山正福寺=流光山成福寺」
諏訪の龍光山観音院は、昔は「龍光山正福寺」という名で存在してありました。
地元の庇護が受けられなくなった時代に現在の地から、川岸の駒沢という地に移転しております。
そしてそこで新たに「龍光山昌福寺」という寺を建立しました。
それで現在のお堂は、その時の昌福寺が管理祈願所として存在していました。
(観音院も昌福寺もご本尊様は同じ十一面観音です。)
正福寺→昌福寺にしたのは音を残しつつも、区別をするために漢字は一字変えたとも考えられます。
更に現在、川岸の駒沢にある「龍光山昌福寺」には
武田勝頼から昌福寺住職に当てた「安堵状」が有り、
内容は「今まで昌福寺のものであったものは、これからも昌福寺のものである」
この安堵状は現在は岡谷市指定文化財になっております。
推測ですが、
@「龍光正福寺」とA「流光山成福寺」は
現在の呼ばれ方は @リュウコウザンショウフクジ Aリュウコウザンジョウフクジ
漢音・呉音を組み合わせて読むと@「リュウコウザンセイフクジ」 A「リュウコウザンセイフクジ」
--------(中島住職様が考察されました)
なんと同じ音になります

考察というよりも、これは確かに同じであると言っても過言ではございません。
寺院の名称がキーワードとして繋がりを見せるとは、本当に驚くところでございます。

前回のブログでも書きましたが、
■諏訪の龍光山観音院(旧:正福寺)は勝頼の母君が過ごされた場所
■土佐の流光山成福寺にある厨子の1つは、諏訪にあるものと一セットの可能性がある考察
■「りゅうこうざん」という名称の一致、今回では寺の名前まで一致しました
■寺の建ってある場所が、諏訪の観音院(旧正福寺)の建ってある場所を彷彿とさせる、仁淀川を見下ろす風景が、諏訪湖を見下ろす風景によく似ている。
■土佐の寺は勝頼が建立したものである
と系図にもある事から、これだけでも多くの繋がりが見いだされます。

母君の戒名「乾福寺殿梅巖妙香大禅定尼」
更に住職様が諏訪の情報を元に推測された事であります。
「崎」この「崎」にキーワードの1つが隠されていたのでは?
勝頼は大崎玄蕃と名を変え、子孫達は「大崎」「山崎」「尾崎」と必ず、「崎」なる字を残しております。
その後様々な姓に変わっておりますが、「崎」には重要なキーワードとして残されて来て居る事が分かっております。
まず、勝頼は「崎」という言葉に覚えのある人物であり、
勝頼の眠る、大崎は、昔は土居川と仁淀川に挟まれた公益の場であり、船着き場でありました。この地は片岡郷川井村大崎と呼ばれておりました。
その地名を名字とする事となります、また勝頼はここに川井神社(大崎八幡宮)を建立します。
更に時代をさかのぼり、諏訪に勝頼が居た時
-------------(中島住職様の考察)
諏訪のお殿様(諏訪家)が観音院(正福寺)を訪れる際には船で諏訪湖を渡って来て祈願をしておりました。
そのお殿様が船をつけていた船着き場は、お殿様が船をつける崎(みさき)ということから、「殿崎(とのさき)」と呼ばれ、今もその名が語り伝えられています(殿崎物語を出版している人もいます)
その観音院で母(由布姫)が療養しており、勝頼も観音院で生活していた時があると思われます。
従って「崎」の言葉から知る人ぞのみ浮かぶ文字(漢字)は『殿(との)』となります。
勝頼は様々な当て字などを駆使して大崎、山崎、小崎、尾崎などと自らが「殿」であったことを残そうとしたことをうかがい知る事ができます。
ここまで-------------(中島住職様の考察)
この地にて、勝頼が大崎と名乗るとき、「崎」という一字に、こめた思い、この地を再興の場所と選んだ理由が、寺院の名なども含め明らかになって来たと思います。
中島住職様には諏訪の情報を沢山頂き、まことに頭が下がる思いです。
ありがとうございます!
これらの重要なキーワードは「勝頼の思い」そのものなのかもしれません。
