
以前に高知新聞にも掲載され話題になっていたのですが、
どうやら、『ひょうたん桜=高遠桜(たかとうざくら)(タカトウコヒガンザクラ)』で勝頼が持って来たと想定して考えてみました

ひょうたん桜(学名:ウバヒガン)(正式名称:大藪彼岸桜)は、
武田勝頼が持ってきたのだと、大昔より語り継がれております。
武田勝頼が、土佐に来てこの大崎村大藪を再興の地と定め、大山鎮めを行い、杖を立てた場所に高遠から薬として持ってきた桜の種を撒いたのが、この「ひょうたん桜」のルーツだと云われております。この桜地区の里を開いたのも勝頼こと大崎玄蕃です。
更には対岸の山の宗津地区の大山祇神社から桜地区を見ると、春分の日にのみ大山鎮めを行った場所から太陽が昇ります。

この「ひょうたん桜」は仁淀川町桜に有り、ここを多くの人が訪れます。全国の桜に詳しい人がその花を見て、高遠桜じゃないか?と言われた事もあるようです。
今まで学名が違うので、どうか?と思っておりましたが、その小振りな花や蕾の時の姿等々明らかに、高遠の桜の形そのものです。
※写真はまだまだ蕾の時の写真ですが、開花している写真が有れば分かりやすかったと思います

高遠桜はピンク色なのですが、ひょうたん桜は少し白っぽいのが特徴です。
ですが高遠桜は土地が変わったら、白っぽい花が咲く事が知られております。
また、ひょうたん桜は開花したばかりの時は本当に濃いピンク色です。
ひょうたん桜(天然記念物)のような桜で樹齢が数百年を越えるものは、この仁淀川町桜にしか存在しておらず、この桜は仁淀川町発の固有のものであると考えられておりました。
高遠桜も天然記念物として、持ち出しを禁止されており、同じ様な桜は他ではあまり見られません。つまり固有のものです。
また、武田勝頼は高遠城の城主でありました。自分の故郷の桜であります!
その高遠桜と姿が同じ、ひょうたん桜がこの場所に在るという事がとても不思議なのですが、ここに勝頼が持って来たという説があります。
繰り返しになりますが
桜の杖をついて大崎村の大藪(現在の桜)に来た(ある説ではこの地を去る時)武田勝頼は、この地を再興の地をして杖を突き立て、その場所に、薬として持って来た桜の種を蒔き、それが今の巨大なひょうたん桜「正式名:大藪の彼岸桜」になったという伝説です。
樹齢が500年と言われておりますが、勝頼が持ってきた説が正しければ、樹齢がだいたいですが、今年で427年?ぐらいだと言う事になります。
ひょうたん桜の在る仁淀川町桜(旧:大崎村大藪(おおやぶ))は昔は多く人々の往き来する大街道であり、勝頼がこの大藪の郷を開いたと言われております。
眺めも素晴らしく、土佐の山々を見渡す事ができ、ちょっとした旅行にもオススメの場所です。
勝頼もここからの眺めを素晴らしいと思ったのではないでしょうか

■武田勝頼は高遠城城主であった
■高遠には高遠桜があった
■桜の花の姿、形がとても高遠桜に似ている
■高遠桜も、ひょうたん桜も、全国的には数少ない固有のもの
■土佐では昔から勝頼が持って来たという伝説がある
■土佐(高知)そして仁淀川町には勝頼の残した史跡が多く在る
■桜の種は薬として使われていた、道中の必需品と考えたのでは?
■対面にある山の大山祇神社から春分の日に大山鎮めを行った場所「ひょうたん桜の大木」から太陽が昇る
■系図では、天正11(1583)に安居の奥の樫山にこもる。(桜の街道を明らかに通っています)
かなりの整合性や関わりがあると感じます

まさか植物の方面から、勝頼との関わりがこれだけ見えてくるとはΣ(・ω・ノ)ノ!
高遠桜を知らなければ、見えて来なかった情報ですが、
ひょうたん桜(植物)が土佐と勝頼との関わりを握るカギであったとは。
それにしても、数百年の間、よく枯れずに花を咲かせてくれてました

まさに奇跡です!

その大なる姿は勇壮で美しい!

今まで、伝説のみでは、史跡としての扱いにはならなかったのですが、
個人的には、「ひょうたん桜」も勝頼公の史跡として見た方がいいんじゃないかと思います。
それにしてもキーワードの多様性には驚かされます
あのヒット映画であるダビンチコードも真っ青です(笑
だんだん長野県に行かなければ、という気になってきました
