2009年06月01日

武田信玄の墓の場所【土佐に残る系図に記載あり(新善光寺)】

こんにちは武田勝頼土佐の会です。

今回は、勝頼の父であり、戦国最強の武将と称えられた
【武田信玄(晴信)】の墓についてレポートしますぴかぴか(新しい)

 実は、武田信玄(晴信)の墓は諸説有って、墓の正確な場所は判明しておりません。 ですが、私もふと思ったのですが、土佐の系図には確か書いてあり、伝えられております。
土佐の系図に記されておる場所は非常に興味深いものがありますひらめき


信玄は自分の死を3年間秘密にする事を遺言し、
更には埋葬地を秘密にしました。

そのため、信玄の墓は
甲州では大泉寺、恵林寺、
信州の諏訪湖、
長岳寺(下伊那郡阿智村駒場)、
龍雲寺(佐久市)
紀州の高野山奥の院、
三河(設楽町)の福田寺、
京の妙心寺など全国各地に存在しています。
甲府市岩窪町にある墓は1573(元亀4)年に信州駒場で病死した信玄を密かに仮埋葬した地と伝えられている。


信玄の墓は武田最大のミステリーであり、ロマンであるわけです。


そして、古くから土佐に残る武田家系図には、その場所が記されておりますexclamation×2

この系図に関わる調査が現在まで為された結果、整合性が確かなこと、多くの史跡発見につながっていることから、系図はとても信憑性のあるものとして会では考えておりますわーい(嬉しい顔)


本(下)信玄(晴信)のことが記載されておる系図です。
App0008.BMPApp0001.BMP

さて、その系図に書かれてある事を現在の言葉で記載してみます。

31歳にて刺髪し法性院大僧正機山信玄と称す
軍功有りて、五カ国の主となり、又五をあらそう勝
天正元年(西暦1573)癸酉4月12日 53歳にて入寂
新善光寺に葬る
恵林寺殿機山玄公大居士 神儀


【新善光寺に葬るとあります】新善光寺とは、どこのお寺かと考えてみると
 (新)が付いているので、甲斐善光寺ではないかと思います。
信玄と善光寺との関わり、善光寺は元は信州長野に在りましたが、
川中島の戦いの戦火が及ぶのを恐れて、永禄元年(1558)にご本尊を始め、僧侶もすべて甲斐(山梨県)に移しました。
現在は甲斐善光寺と呼ばれております。
移してから、新善光寺と呼んだのかもしれません。
土佐の子孫の方々は新善光寺に祀られていると伝えられて来ております。

ご本尊は元の信州長野善光寺に還っております。

善光寺に武田信玄の墓があるという説は今まで在りませんでした。

さらには、甲斐善光寺から車で10分ぐらいのところに信玄が荼毘(だび)に附(ふ)されてたという場所があります。
(土屋右衛門昌次の邸内で荼毘に附したとされております。)
※荼毘に附すとは火葬のことです。

そして、戒名【恵林寺殿機山玄公大居士 神儀】恵林寺と書かれております。

【恵林寺】は武田信玄が菩提寺と定めた臨済宗妙心寺派(りんざいしゅうみょうしんじは)の古刹です。
※古刹とは由緒ある古い寺のことです


かわいい以上の、土佐の事を合わせてまとめると

信玄は天正元年(西暦1573)癸酉4月12日 53歳にて亡くなり、
土屋右衛門昌次の邸内で荼毘に附され(火葬)
信玄自身が守った近くの新善光寺に埋葬され
菩提寺の恵林寺で法要が行われた

と考えられます。
あくまでも土佐の伝えを交えた考察としてお考えください。

 土佐の武田家系図、400年以上前より伝えられて来た系図であります、
昔は通信技術なども発達してなかった時代でありますが、寺の名前や、信玄の戒名、様々な事柄も一致しておることから、何度も驚かされ、とても重要視しております。


今回は勝頼の父のレポートでありましたが、いかがだったでしょうか?

また全国より勝頼に関する話や史跡を募集中です。
どうぞよろしくお願いしますぴかぴか(新しい)
posted by makkun at 11:04| 高知 | Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
すごいですね!調査してみる価値があるんじゃないでしょうか?
信玄の墓は謎とロマンに包まれていますが、この事が本当なら地元山梨でも大きく取り扱われても良いかと思います。遠く土佐の地に古くから伝わっていたとは驚きましたし、子孫の方が所有しているというのが更に信憑性を大きくしていると思います。
Posted by sasuke at 2009年06月05日 18:19
ありがとうございます。
とても嬉しく思います。

土佐の系図から様々な発見があります事は我々も大変喜んでおります、価値のあるものであると思います。

それと新善光寺という名の寺があったかどうかを山梨県の方に問い合わせてみました。
先日、メールで山梨県立博物館の担当者様より、「新善光寺」と呼んだ資料は、管見では見受けられません、
との事で、土佐の説のとおり、おそらくは甲斐善光寺のことを指しているものと思われるとのご返事を頂きました。大変ありがたく、また参考になりました。
Posted by WEB管理人 at 2009年06月17日 11:07
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