2009年08月08日

玄蕃まつり、玄蕃踊り【勝頼が伝えたとされる踊り】

勝頼が土佐に落ち延びてより、広められた「玄蕃踊り」
花台


 その玄蕃踊りが8月22日の400年祭【夏の陣】にて行われます。ぴかぴか(新しい)

また、10月10日の【秋の陣】では、「手踊りサミット」と題しまして、各地から玄蕃踊りに縁のある、各地の手踊りを招いて共演します。
※「手踊り」と総称で呼ぶのは、「玄蕃踊り」「豊年おどり」「狐踊り」など様々な呼称があるからです(^^)

 それに先立ちまして玄蕃踊りの由来や経緯を、「村史や町史や史料、伝承」を元に説明しますね(^^)vー(長音記号1)

 
 この踊りは仁淀川中流及び上流域の高岡郡佐川町、越知町、吾川郡仁淀川町または津野町、県下の様々な場所で古くより踊られている盆踊りの1つで、民俗風情を歌ったもの、その中に勝頼の事を歌った踊りです。

 その踊り歌に「大崎玄蕃殿は十七八をかたいだ・・・」という一節が見られます。

↓昔の踊り子たち↓
踊り子



 かわいい土佐に落ち延びて来た勝頼は天正14年に大崎八幡宮を建立し6月15日にこれを祭る事となりました。(故に旧6月15日を玄蕃まつりとするところも有ります)


 大崎八幡宮を建立したその時に諸民が、武田の祖を慰め、氏神を崇める為に踊りを奉納しました。
 その時に勝頼こと大崎玄蕃自ら出て庶民と打ち交わり踊りました。
 諸民は勝頼をからかったりしましたが、それに動じないばかりか、諸民とうち解けて踊り続ける姿を見て、その時の様子から即興で歌を歌いました、そしてこの踊りを遂に「玄蕃踊り」と名付けたのです。
 武田勝頼が来る前は踊りの名前は定まっておらず、それ以前より伝統的な盆踊りとして踊られていたものであります。

(※【皆山集】という史料にも記述があります、一番下に書き込みましたので、後で見て下さい。)


 武田勝頼こと大崎玄蕃が踊ってより玄蕃踊りは有名になり各地で行われるようになりました。
 またこの時以降に、踊りの意味合いが、祖霊供養的なものや念仏だけに留まらずに、祈願、疫病防ぎ祈願、豊年、の意味合いも含まれるようになったようです。
genbaodori.jpg


 ここ近年(平成10年頃)までは大崎八幡宮の境内で玄蕃踊りは毎年行われておりましたが、過疎化と後継者不足で実行が不可能となってしまいました。ふらふら
 これは仁淀川町大崎のみならず、山間の過疎化の激しい地域では同じ様な状況なのです。


  勝頼こと大崎玄蕃が没してからも玄蕃踊りは各地で力を発揮します。ぴかぴか(新しい)

 寛永19年(1642年)に日本全国土を覆う異常気象が発生します。
寛永19年から20年にかけて、諸方に黒風という疫病が流行し多くの方々が亡くなりました。

 この時に佐川の主である、深尾重昌がこれを憂い、家臣五十名を従えて御獄山の山守小田信白方へ登駕(行くこと)して、山守小田信白方の邸に斎殿(神様を祀る場所)を設け、7日7夜に渡り通夜(夜どおし行うこと)する上、疫病が領内に入らないように祈願され、且つその解願として永く吾領内に於いて踊りを奉納するべしと誓われました。

 これより三野村の内仏崎という所へ踊堂を建設し、領内には残らず踊堂へ集まり玄蕃踊りを始めます。

 そして数百〜数千遠くから人々が集まり、これほど集まっては財源も大変だという事になり、近い村々が2つ、また3つが集まって踊る事と定められ、年毎に6月15日にこの踊りを行う事となった。
 これは武田勝頼が踊りはじめた6月15日と同月同日であります。


玄蕃踊りは、太鼓踊りと、手踊りに区別されておったようですが、現在玄蕃踊りで行われているのが、ほとんど手踊りであります。


玄蕃太鼓踊り

 現在でも仁淀川町には椿山太鼓踊りや都太鼓踊りがありますが、それが玄蕃太鼓踊りでもありました

 椿山太鼓踊りは昭和46年の調査でも、玄蕃太鼓踊りは、椿山太鼓踊りと同じ踊りであったと古老の話が採集されており、事実、現存する太鼓踊りの中には玄蕃踊りという演目の1つが存在しています。

ひらめき
 (旧池川)椿山太鼓踊りでは、玄蕃踊りは「さんばれ」という演目がこれに当たり、他の演目は3〜4番までしか歌詞が無いのですが、
「さんばれ(玄蕃踊り)」だけは22番まであり、その中に「大崎玄蕃殿は十七八をかたいだ、十七八は嘘のかわ、刀をこそかたいだ」と踊り子が後をつけ、一節づつを交互に歌うものです。そして盆には必ず踊るものとされておるようです。
椿山太鼓踊り
 また椿山の太鼓踊りは、氏仏堂で、安徳幼帝の子守歌として、また平家の武将や公達(キンダチ)の霊を慰める祭りとして、毎年古式通りに奉納され、数多くの伝説とともに、椿山集落の人々に受け継がれてきたものとして伝えられて来ております。
 勝頼が土佐に入る以前より存在しておりました。

 (旧奥名野川)の都踊りでは玄蕃踊りという演目を「念仏(ねぶつ)」といい、そしてこの踊りの時だけ烏帽子(えぼし)、赤欅(あかけやき)(他の時は袴に白上衣)の姿になり、女の踊り子は踊り輪から退き、男だけの踊りとなります。
「弓をこそかたげ、槍をこそかたげ、大崎玄蕃殿十七太刀をかたいだ、踊りに来ては踊りこそするぞ、えんでひとはけ、えんの花ばかり」
 続いてエノ声、オウノ声、鳥飛び、ナンボテ、四通りの念仏唱和の踊りがあり、玄蕃踊りを念仏という由縁であります。
 祖霊を慰めたものであると伝わっております。
「えん」とは縁や円を掛けた言葉です、このように全ての言葉に掛詞が使われております。
〈下の写真は全く似通っていたとされる都の太鼓踊り の写真〉
都太鼓踊り
 こちらもまた、元は安徳天皇の御霊を安んじ奉るために踊られていたもので、勝頼が土佐に入って来てから、玄蕃の歌は足されたものであるとされております。
 現在は奥名野川の「都踊り」は残念ながら完全に途絶えてしまって、史料や記録からのみ知る事ができるぐらいです。

(越知町)の太鼓踊りの中の一つである玄蕃踊りは太鼓打ちが歌いつつ踊ります。
 「それよ、大崎の玄蕃殿、十七太刀をかたいだ、弓よこそかたいだ、太刀をこそかたいだ、せりよれ、太刀のもとへせりよれ」
 これを神社に三回奉納、後は集落の戸数だけ踊る。古老によれば68回、繰り返し踊った時代があったといわれます。

 また特定の願込めにも踊り、病気快癒の願込め以来があると、踊り子の長老がクジ(数珠を操って占いに出た数珠の数が踊りの回数となる)で回数を決めて玄蕃踊りを踊るのだという事です。


このように玄蕃の太鼓踊りや手踊りは各地に様々な形で現存しております。
 玄蕃祭りとして行われるのは大崎八幡宮を建立し踊りを奉納した6月15日は全共通なのであります。
玄蕃踊りの古い形として後世まで大事に残して行きたいものです。わーい(嬉しい顔)わーい(嬉しい顔)

※「皆山集」↓
「天正十年壬午三月十一日甲州の大守武田四郎勝頼、織田信長の為ニ討ち破られ当国吾川郡大崎の里へ落ち着き大崎玄蕃と名乗りけるが、同十四年氏神正八幡宮を建立し六月十五日之を祭る、其時諸民踊りて神意を慰め奉る、玄蕃頭自ら出でて諸民と打交り踊りけれハ、諸民ども玄蕃頭を嬲り半分戯言とも打ちくどき、大崎玄蕃殿ハ、十七八をかたいたと謳ひ始めしより遂ニ玄蕃踊と名付けたりとぞ、」】この後も続きあり


グッド(上向き矢印)その2へ

posted by makkun at 23:51| 高知 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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