


仁淀川町には400年以上の歴史を持ち、重要無形民俗文化財として登録されている神楽が3つも在ります。
3つとも大体ですが、同時期に興ったのでは?と考えられております
【安居神楽】
【池川神楽】
【名野川磐戸神楽】
安居神楽の特徴は、神楽の始まった頃より脚色が加えられていない、純粋で素朴な神楽である事だと思います。
その形は日本最古であるとも言われており、大変貴重で、この形のまま残して行く事が重要だとされております。
さらには、「舞い出し」という、天の岩戸びらきの神話が舞いの中に含まれ、天照大御神が岩戸の中からお出ましになります。
【天の岩戸】の詳細を知りたい方はコチラをクリック!

(左↑、我が家から撮った写真)
7月22日に日食が日本でも見えましたね、太古より太陽は神様として崇められていましたから、その太陽が欠けたり、無くなったりするのは、昔の人々にとってはとても恐ろしい事であったのです。
それで、様々な儀式を神様の前で行い、安全を祈り、踊ったのが、神楽の起源であると言われております。
これは、「天の岩戸」の神話にアメノウズメが、岩戸にお隠れになった天照大御神に出てきてもらう為に踊ったという神話の中にも見られる行為です。
安居神楽に話しは戻ります、お神楽の実演時間は約5時間。
全部を見て欲しいのですが、8月22日【夏の陣】では、ダイジェストで20〜30分間のみ行われます。

◆安居神楽の奉納日◆
今年(平成21年)は、12月12日、熊野神社
来年(平成22年)は、12月 8日、八所河内神社
一年毎に12月の12日または8日という順に奉納されます。
・通常の奉納演目・ 神事(宮司)〜初祈り(全員で行います)
1,弊の舞
2,順の舞
3,悪魔祓の舞
4,神迎え
5,猿田彦の舞
6,舞い出しの舞
7,二天の舞
8,将軍弓の舞
9.手草の舞
10,和卓の舞
11,長刀の舞
12,山主の舞
13,四天の舞
14,鬼神の舞
15,太鼓鎮め
動画で少し見られます↓URLにて
http://www.youtube.com/user/freetempo74

県外では香川の詫間にある〈石鎚神宮〉でも藤の花が咲く頃に合わせて行われました。


約400数十年前、ちょうどこの頃(神楽が興った頃)というのは、武田勝頼たちが、土佐に落ち延びて来て、活動をされている時期と重なります。
それだけではなく、安居神楽と武田勝頼の伝承の部分に共通する岡林氏の誕生が時代を表しております

勝頼が大崎八幡宮を建立した時に宮司となったのが、初代の岡林氏の祖であります、岡林甲斐守勝貞(おかばやしかいのかみかつさだ)であります。
系図などから分かっておる事は、武田勝頼一族の神主として岡林姓が始まりました。
以来、代々と、現在は25代目の岡林神主が伝承を受け継いでおります。
教育委員会のサイトに神主の系図はあります。(クリック)
安居神楽の起源伝承の中の「安居神楽太夫由来記」に、岡林家の誕生の事が書かれております。
また更には、安居の奥にある樫山に勝頼が籠もったと系図には記され(その場所には樫山神社が建立され)ておりますことから、古くより安居神楽は勝頼と関わりのある神楽として考えられております。
■安居神楽の由来等を見てみると、

建武(1333年〜1336年,もしくは〜1338年)の京は戦乱となり、
延元元年(1336年)に神社仏閣が戦火に見舞われます、
聖域の汚れる事を悲しむ山城の国の北斗妙見神社、熊野神社、三社十二社大権現
の神主は尊き皇族の身ながらご神体を捧持し奉り、
鎮座の地を求めて土佐の国吾川郡小川村(現:いの町)樅ノ木(もみのき)山に落ち延びました。
神主は北斗妙見星神社をこの地に鎮座し、熊野権現も樅ノ木山高樽の峰に奉遷され、その地を永住の地として神社祭祀に当たります。
この神主の子孫が新別と高樽(旧:吾北、現在はいの町に在ります)とに分かれて、後に岡林姓の祖となるとなります、この「分かれて」がいつの時代なのかというと、勝頼の伝承、八幡宮の伝承もいずれも岡林姓の始まりを記している事を合わせると岡林氏の始まり時期がだいたい分かります。
天正14年(1586)6月15日に大崎八幡宮が建立された時の初代神主は岡林甲斐守勝貞でありました。
旧姓は武田より岡林姓に変えたとされ、大崎家の一部の系図等にも見る事が出来ます。
この「分かれて」の時期に何があったのかは詳しくは分かりませんが、勝頼の一族が神主として岡林姓を名乗った背景に、大崎八幡宮の建立以降の神主としての事はもちろんの事、その同じ時期に地元の有力な神主家である北斗妙見の星神社の神主の一族と武田の一族の間に姻戚関係などが結ばれ共に岡林姓として代々神職を司ったものと推測されております。
※勝頼の一族は大崎氏を名乗り、大崎、岡林、小崎、安部などは神主になった家系が多いです。安部家は池川神楽を継承して来た家でもあります。
そして、土佐に来た北斗妙見星神社の神主に熊野権現のご神託があり、
「吾行くは何時迄も氏子を守る土地なり」
と言われ、八鳥(やたがらす)となり、金色の光を放って、御幣に乗り、いずこともなく飛び去られた。
神主は、その跡を慕い、訪ね来た地が安居郷宮ヶ平の山中であり、その時102本の御幣があり、百二社権現と祭った(現:熊野神社)以来、安居郷惣鎮守として崇敬されております。
この早い時期に、神主は安居郷に既に来ております、そして、元の高樽(旧:吾北村、現在:いの町)にも残った神主の子孫であるものが後に土佐に落ち延びて来た武田勝頼の一族と関係を成して岡林家の始祖となりました。

高樽山熊野権現の神主岡林家に「お福」というとても美しい娘が生まれました。
「お福島田と昼出た星は、人が見たがる言いたがる」と謳われた。
これは「お福」のような美しい島田を結いたい、という気持ちと、まれに見る美しい姿は昼の星を見た事を人に言いたいという掛詞であります。
絶世の美女であった「お福」は安居郷大家の神主、豊臣掃部(とよとみかもん)本名を佐藤掃部(さとうかもん)の長男である、美男子、「世にも希なる美男子」と言われた、佐藤能登守(さとうのとのかみ)と夫婦になりました。
夫婦は3人の子供を儲け、長男は亀次、次男は徳才、三男は甚太夫(じんだゆう)と言います。 三男の甚太夫(じんだゆう)は神楽の名手であったとの事です。
安居神楽は神主が安居に伝えたものなのか、佐藤家が伝えたものなのかは分かっておりません。
この神楽はもし神主が京から持って来たものであれば、歴史は約670年にもなります

豊臣家に神主として仕えた佐藤家が落人として伝えたのであれば、大阪夏の陣以降に豊臣家が滅びたとされる1615年よりも後で、しかもその孫の甚太夫が神楽の名手であると記されておる事から、孫が岡林のお福と結婚した後の時代であり、神楽を舞ったと考えられるの限界が約350年ぐらい前より後の時代であると推測される。
佐藤家が神楽を伝えたのであれば孫の名ではなしに佐藤掃部(さとうかもん)の名前が出てもおかしくないが、孫の甚太夫の事のみが記されております。
ですので、「岡林家のお福」と佐藤家が結婚して以降に出来た三男の甚太夫(じんだゆう)以降の時代に神楽が安居で舞われたと考えられます。
そして、この流れで見ていくと、「岡林家のお福」は北斗妙見星神社の神主と、武田との両方の子孫となり、こうなると安居神楽の起源は京から伝えられたものなのか?勝頼の一族が伝えたものなのか?という2つに絞られて来ます。
勝頼の一族が伝えたものであれば400年以上前のものである事は確かです。
ここで大崎八幡宮に古くから残っていたと言われる神楽があります。
●大崎八幡宮で行われていた神楽について明治時代に神道が、国家神道ととして、統一され、多くの神社が統廃合された時代があり、大崎八幡宮の統廃合や、習慣の統一や変化を恐れた22代目八幡宮神官の岡林正神は自分で道場を開き、新しい宗教法人へと移行し、昔から大崎八幡宮にあった神楽や習慣などを、後の宗教法人長生教を設立し、そこで保存する事となりました。
ここ40年くらい前までは神楽ものこっておったようなのですが、今は舞人が絶えて、当時の面や衣装、道具などが残っておるだけです。
大崎八幡宮に確かに神楽があったというのは、1つのヒントかもしれませんが、
今となっては、安居神楽は京から伝えられたものなのか?
勝頼の一族が伝えたものなのか?
佐藤家が伝えたものなのか?
それを知るすべはなく、考察に頼るのみとなります。
この様な形で古くより武田勝頼の伝承と共に安居神楽の存在が語り継がれているのは事実であります。
ちなみに、私も安居神楽の舞人であり、重要無形民俗文化財の保持者であります(*^_^*)、アイラブ安居神楽


■星神社
※土佐で星神社の神主といえば、平家の落人であるという説が有ります。平家の落人伝説はこの地域にも広く残っております。
武田はもちろん源氏です、この地は平家も源氏も仲良くやっていたのかも♪