準備など様々な事もあり実質2日で始まりそうな気分です
さて、土佐には武田勝頼の妻も一緒に落ち延びて来ております。
北条夫人と言われておる勝頼を最後まで支えた女性です。
また土佐の系図、大崎八幡宮の伝承、墓にはある意外な事が記されております。三枝氏との関わりが出てきます。ぜひ最後まで見て下さい
夫人は
■永禄6年(1563年)? に北条氏康の6女として生まれる
■天正5年(1577年)1月22日に北条夫人は勝頼正室として嫁いだ。
■天正6年(1578年)に越後国で上杉謙信が死去すると後継者(影虎と景勝)を巡る御館の乱が発生
勝頼は、夫人の実兄である北条氏政の要請もあり、夫人の実兄にあたる上杉景虎(かげとら)を支持し、侵攻を開始。
ところが先陣を任された武田信豊の元に上杉景勝(かげかつ)からの和睦要請という書状が届けられる。
この和睦要請を受け入れるが、決して影虎支援を放棄してはいない。
これは最近の研究で分かってきた事ですが、勝頼は両者の和睦調停に本気で当たりました。
武田勝頼のすべて(発行所:新人物往来社、編者:柴辻俊六・平山優)という書籍のP83〜87までを参照して下さい。
勝頼は和睦を受け入れ、妹の菊姫を景勝のもとに輿入れします。
その返礼として、結納金として公式な贈答が行われました。
通説では賄賂を送ったとされておりますが、これは間違いであると考えられております。
家老の跡部勝資(あとべかつすけ)から和睦の回答がなされ、その後に景勝から1万両?や金などが献上されます。
受け取った跡部勝資は勘定奉行であることから公式な贈答、結納金と考えられておるわけです。 ですが、結局は景勝との単独講和が北条氏の疑念を招いたと考えられます。
8月19日に両者間の和睦が成立、勝頼の目的は達成されるのですが、両者の和睦は10日で崩れ、帰国し影勝への軍事支援はなく、この支援は景勝の一方的な宣伝であったと最近では考えられております。
ともかく、北条氏政は勝頼に対して不信感を抱き、甲相同盟の破綻を招いた。
この時、北条夫人は勝頼が故意に北条氏康の要請を破っていない事は理解していたはずです。
■1580年の7月 勝頼によって武田館に招かれた恵林寺の住職である快川紹喜和尚が北条夫人に対面した時の印象を 、「蘭渓字説」にこう書き残しております。
「家語に曰く、善人と居るは芝蘭の室に入るがごとし、久しくしてその香を聞かざるも、自然これと化す。善人あに異人ならんや、淑女君是なり」
大体の訳は:夫人のような穏やかで良い方と共にいると、知らないうちにその人の感化を受けて、こちらまで穏やかな気持ちになる。
と言った意味の様です。
■天正10年(1582年)2月1日には織田・徳川連合軍の甲斐侵攻を受け、河内領主の穴山信君ら一部家臣団の離反も招きました
■同年2月19日、新府城に移り住んでまもなく夫人は夫勝頼のため、勝頼のために武田家の安泰を願い、武田八幡宮に悲痛な願いの込められた願文を奉納している。
その願文は現在山梨県文化財となっています。
しかしその願いも空しく同年3月3日、やむなく武田勝頼が未完成の新府城に火を放ち出奔する事となります。
■定説では3月11日に日川渓谷の天目山の近くの田野で、勝頼と共に自刀した事となっております。
◆ですが、土佐に伝わる説では、上野国(上州)に一時は隠れ、勝頼と共に諸国を経由し土佐に入って来た事となっております。
ここからが土佐に伝わる説で、とても驚く内容となっております。
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