2009年08月20日

【北条夫人、三枝夫人】土佐に伝わる説【その2】房総の智蔵寺に信勝の位牌

 眼鏡北条夫人の事に関して、土佐では異なった説が伝わっております。

土佐の系図には、「(勝頼の)後配は、北条氏康の娘とあるが、実は三枝三郎晴友(さえぐささぶろうはるとも)の娘なり」と書かれております。
(土佐の系図は古い時代からの驚くほどの整合性で信憑性が高いと考えられております)


 これには2つの考え方が存在しております。
【1】三枝氏の養女として北条氏の元へ行き、北条夫人として勝頼の元に輿入れした。

【2】勝頼には、北条夫人が室と入ってくる以前より親しい女性(側室?)がおりました。名は三枝夫人(さえぐさふじん)と呼ばれます。

 私は【2】であるのではないか?と考えます。
 理由は、勝頼の次男(正晴)が産まれたとされる天正2年には、北条夫人は嫁いで来ておりません。

天正2年(1574年)にその勝頼の側室?が次男である正晴(まさはる)を甲斐にて産みます。

天正5年(1577年)1月22日に北条夫人は勝頼正室として嫁いで来ました。

天正6年(1578年)の御館の乱が起こった時に勝頼と北条夫人は離縁したのではないかと考えられていたり、いや離縁はせず、後に北条氏康に勝頼に背信の心は無かった事を伝えたとも言われております。(※土佐の伝承で定説とは異なります)

天正10年(1582年) 、天目山では自刀せず、これより先も、三枝夫人は勝頼と生涯を共にし、土佐に皆と一緒に落ち延び過ごされたとされております。


 土佐では、落ち延びて後からか、「三枝夫人室(さえぐさふじんしつ」とされたと考えられております。


 ちなみにこの三枝三郎晴友とは、武田家24将の一人である三枝守友の事であると言われております、しかし確証には至りません。
 一説には、三枝守友は、山県昌景(山県三郎兵衛昌景)にも気に入られ、その娘婿ともなり、姓を変え山県善右衛門となる、後に天正3年(1575年)、長篠の戦いのときは復姓して、三枝三郎晴友として参戦したとも言われております。


 北条夫人との愛称で、現代まで呼ばれている人物は実は三枝夫人の事であると伝えられておる事


 ひらめきここに1つの謎が明らかになります。ぴかぴか(新しい)

実は、千葉県南房総市山名(三芳村)には智蔵寺という甲斐武田の家臣であった三枝氏の菩提寺である曹洞宗の寺院があります。

寺伝によると、この寺の開基はなんと、勝頼の長男である武田信勝(のぶかつ)になっております。
 さらには、三枝守全の次男は何故に諏訪の姓を名乗り「諏訪頼増」としたのかも不明でした。



 これは土佐の伝承より説明がつくようになります。

武田信勝(勝頼の長男)は大阪夏の陣に息子達と共に参戦します。
その後、南房総におる、武田信玄の三男を訪ねて行ったとも言われております。
 三男は定説では幼い頃に死去した事になっておりますが、土佐や、千葉の三芳村史には、武田兵部少輔信栄(武田豊信)が信玄の三男であっと云われております。<武田豊信に関しての詳細はクリック>


(余談ではございますが)
 信勝は天目山の戦いを避け上州下仁田一帯土屋高久に匿われ、南牧村の市川家に居住したと云う伝承がある。
 信勝は妻を娶り、子の信義が生まれた。信義は後に大坂の陣で討死。
 子孫は市川氏と名乗り、下仁田一帯に居住したと云う。
(このような説もあり、群馬県で勝頼と信勝たちは匿われていた事が伺われます、更なる調査が必要であります。)

 信勝たちは、すぐには帰って来なかった、もしくは戻って来なかったとの云われも有りますが、系図には没年月日が (寛永6年)1629年の7月11日没となっており、63歳で亡くなったとなっており、土佐に墓も確認されております。
 という事は戻って来てはおるのですが、夏の陣の頃に南房総の三芳村に訪れ、三枝氏(さえぐさし)を頼った可能性は大いにあります。
(その頃、三枝氏は、武田家滅亡後は徳川家康に仕えております)


 また勝頼の曾孫である、晴勝(はるかつ)は祖母が三枝夫人(北条夫人?)でありました。
 晴勝(はるかつ)は、安全な時代になった事を確信し、故郷を目指したと云われ、その後の消息は不明となっております。もしかしたら無事辿り着いて子孫が続いておるのかもしれません。

 信長の残党狩りは関東一円に及んでいるから、晴勝は相当後年に帰郷したと推察出来きます。

 信勝(のぶかつ)、もしくは晴勝(はるかつ)が、故郷へ向かった際に頼る家といえば、父(祖父)が武田勝頼(諏訪四郎勝頼)であったことから、武田は滅んでおりますゆえ、父の出生した諏訪氏、もしくは、祖母の三枝夫人の出である三枝氏を頼った可能性は十分にありますexclamation

千葉の三芳村にある武田信勝の位牌は、武田信勝自身が訪れたから作られたのか?曾孫が頼って行き、勧請開基としたのか?

一つは、土佐と千葉の戒名の違いから、
「武田信勝自身が行ったから」ではないか?と考える場合もあるという事です。

●千葉(南房総)では●霊徳院殿従四位下前甲信太守英林道傑大居士、俗名「武田次郎三郎信勝」とあり、(三芳村史の編纂史料UのP199を参照)

●土佐では●清照院殿峯岩浄空禅定門
とあります。(各武田家系図より)

2つの位牌の戒名が違うのは、勧請した寺が違うだけでも有り得る事なのですが、
土佐で信勝の戒名が定まっている場合、千葉(南房総)の位牌の戒名をわざわざ変えないのではないか?
と考える場合もあり、信勝が生存していた時に行ったからこそ開基であり、その後房総を去った場合、土佐で没した時の戒名の一致は、千葉(房総)の者には分からないからという事も考えられます。

 さらには、位牌に没した年月が記されておりますが、天正15年(1587)3月寂となっております。
信勝は父の勝頼と共に、
 天正13年(1585)寺村に武田家の先祖を祀る為の菩提寺(流光山成福寺)を建立
 天正14年(1586)土佐で大崎八幡宮を建立
寛永6年(1629年)の7月11日没という事ですから、
 私が思うに、千葉(房総)の三枝氏を頼ったのが天正14〜15年(1587)で、後に土佐では津野氏に仕えておりますので、房総を発ったこの頃が位牌に寂年月として残っておるのではないか?とも考えております。

も う一つは、「曾孫の晴勝が行ったから」だという説を有力と考える場合もあります。
信勝が生存している時に、位牌を作る事はあり得ない、という考え方が先に立ちます。
そして曾孫の晴勝が房総へ行き勧請開基としたという事も十分考えられるわけです。


ここまで三枝氏との関わりで、私どもが分かっておる部分を公開させて頂きました。わーい(嬉しい顔)

勝頼の妻である、三枝夫人(北条夫人)の伝承は、大崎八幡宮や鳴玉神社などにも残っております。
さらにそれだけではなく、佐川町の地名にも関係が有り、関係神社がいくつか確認されております。


・(続き【その3】へグッド(上向き矢印)
posted by makkun at 10:21| 高知 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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