2009年08月20日

【北条夫人、三枝夫人】土佐に伝わる説【その3】



◆武田勝頼と共に夫人が土佐に落ち延びた説


三枝夫人(北条夫人)は、庶民に大変慕われる人物であった様です。


【1】仁淀川町にある大崎八幡宮(旧:武田正八幡宮)のご神体として。
【2】鳴玉神社で行われる祭祀で祭られております。また夫人と勝頼の墓が有ります。
【3】佐川町にある美都岐神社(みつぎじんじゃ)
【4】佐川町の地名にまでなった美都岐
【5】越知町の貢神社(みつぎじんじゃ)(君貢神社とは違います)

もしかしたら、他にも夫人に関するものはあるのかもしれません。


 【1】大崎八幡宮のご神体の1つとなった夫人

夫人が亡くなって以降、勝頼の建立した大崎八幡宮のご神体として祀られております。
いつの時代に祀られたのかは不明なのですが、亡くなってからそんなに年月が経っていないのではないかと思われます。

 ご神体の呼び名は「美津岐神社」(みつぎじんじゃ)「美津岐さま」など

 いずれも美津岐(みつぎ)と呼ばれております。
こう呼び始めた由来には、三枝夫人本人が、自ら美津岐と名乗ったのか、
もしくは、代々祭祀を行う神主が、当て字を行ったのか?の2つの説があり

いずれの説も
 三枝(さえぐさ)という読み方を変え、三枝(みつぎ)と読んだ事が分かっております。

本人が言ったものとも、少し後の時代に神主が字を読み間違え、当て字をしたとも考えられます。
いずれにしましても、大崎八幡宮のご神体の1つとして大事に祀られております。
ご神体は、美津岐神社と書かれた木箱に、納められており、
他のご神体と同様の形で、位牌のような形のものに、美津岐神社と書かれ、銅製の直径8cm程の鏡と共に納められております。この鏡は桃山時代〜江戸初期の鏡である事が分かっております。

 神社は後の時代になってから江戸時代に建て替えられており、それまでは武田の物である事が分からないように、地面に埋められていた木の神像が10体(実際は12体あった)とその時代の鏡などが見つかっております。
 江戸期に入ってから再建されたという事で、奉納された物もその時代のものが多いと考えられております。

 この神社で踊られている玄蕃踊りは、勝頼が踊り、玄蕃踊りと言われて以来、夫人も踊りを広く普及したと言われております。そのため芸能にも精通していた女性であると推測できます。

 この大崎八幡宮の秋の神祭(11月15日)には、美津岐神社が御神輿によって、土居屋敷跡であり、勝頼夫婦の墓前である鳴玉神社へ運ばれ、神事が執り行われております。
 私が推測するに、明治時代より以前は仏事も同時に執り行われていたものでしょう。



 【2】鳴玉神社へのおなばれ、墓所

系図には、三枝夫人(北条夫人)は、勝頼と共に土居屋敷の、柿の木の元に葬ると書かれております。
 この柿の木は現存しており、樹齢が400年以上前のものであると言われており、現在では表皮が大きな柿の木を支え、今でも沢山の柿の実が成ります。
 この柿の実を大事に育て、苗として勝頼ゆかりの地に植樹できたらと考えております。

 そこに墓が作られ、石むろの上に、後の時代にお地蔵さまが据えられており、お地蔵さまには美都岐と彫られております。

 その墓の前に勝頼と美津岐(三枝夫人、北条夫人)を慕う氏子達が鳴玉神社を御旅所として建立し、10月の玄蕃祭の時には大崎玄蕃(武田勝頼)が運ばれて来て祀られます。秋の神祭の時には、大崎八幡宮から美津岐神社(三枝夫人)が運ばれて来て祀られます。

 夫婦で祭祀が大きく執り行われる事を考えても、夫人の存在がいかに大きかったが伺えます。勝頼を支えた素晴らしい奥方であり、地域の人々に愛された事でしょう。
今は地域の神として崇められております。



 【3】佐川町にある美都岐神社

 高知県高岡郡佐川町東組上美都岐に建立されておりますが、こちらの神社の方では由来は不明でありますが、口伝として、大崎八幡宮の美津岐神社が勧請されたものだと言われております。
 神社の正面の入り口には、「満木大明神」(みつぎだいみょうじん)と札が掛かっております。

この神社では毎年、11月12日の 午前:白倉神社、午後:美都岐神社
に「斗賀野花取り踊り」(市町村指定重要無形民俗文化財)が行われます。
また四ッ白の仁井田神社でも開催されるようです。

 太刀踊りの一種で、昔は真剣を使って弊を斬ったりする舞いも行われていましたが、現在は真剣は使われておりません。

 この花取り踊りのルーツは、
津野山花取踊(旧東津野村) にも書かれてあります。
http://www.town.kochi-tsuno.lg.jp/window02.html
 東津野地域には、それぞれ内容の異なる「花取り踊り」が三地域(船戸・郷・芳生野)で伝承されていますが、その由来については同じ系列のものであると考えられています。
 佐川藩主「深尾家」の家臣であった「奥田武芸八勝之進」が隣接する仁淀村に追放となり、鍛冶を職としている間にこの津野山の地に伝えたそうです。
 つまりルーツは仁淀村なのですが、ここにも古くから伝わる「花取り踊り」が存在しておりました。現在では大学生などが復活をさせ、今年(平成21年)にも行われました。
 

「斗賀野花取り踊り」の由来は
花取城という難攻不落の城の前で、寄手(よせて)は里人を集め、太刀を抜き踊ってみせた。
盆踊りかと城の護衛が油断したところを攻め取った、という逸話から生まれている。
 11月初旬の朝、ワラで作った実物大の馬が境内に据えられ(旧:仁淀村の七夕祭りでも藁(ワラ)で作った大きな馬が飾られる)、二人の天狗が長い竹棒を手に立つ、やがて太鼓のリズムに合わせて花笠をかぶり、青い衣装に太刀をもった踊り手が12名ほど並んで鳥居をくぐって現れる。
 続いて、元気なお囃子と共に子供御輿が登場する。
踊り手は、しだいに輪になって境内を踊りはじめる。剣舞のようないでたちで躍動感あふれる踊りだ。
 その間二人の天狗はその間観客に近づき、からかう。踊りは、およそ1時間続き、最後に餅投げして終了する。

ワラの馬が登場する辺り、仁淀村という地域との関わりが見えてくる。
さらに、佐川町から来た「奥田武芸八勝之進」が伝えたという事も考えられるし、
仁淀で「奥田武芸八勝之進」が考えて作ったものとも考えられる。

 いずれにしても、美都岐神社などの前でも毎年踊られる事から、今後、三枝夫人(北条夫人)との関わりを探って行きたいと考えております。



【4】佐川町の地名にまでなった美都岐

佐川町には玄蕃屋敷があり、地検帳からも確認できるため、勝頼達が居住していたと考えられます。
 山内氏が招いた深尾氏からも養護された事より、佐川町に出た子孫の方々(特に直系)が居られます。
 (勝頼が踊った玄蕃踊りは深尾氏によって更なる広まりを見せます。)
 高知県高岡郡佐川町東組上美都岐と美都岐神社(みつぎじんじゃ)のある辺りも夫人との関連を考えた方が良いのかと思います。玄蕃踊りが行われた可能性は大いにあります。

 
  
【5】越知町の貢神社(みつぎじんじゃ)(君貢神社とは違います)

越知町は仁淀川町と佐川町との間にある町です。
 この町には、勝頼の娘である檮姫(ゆすひめ)が、横畠佐馬介に嫁いでおります。

地理的にも、美津岐神社から近い事から、由来を同じと考え、
由来を同じとするなら、三枝夫人(北条夫人)である、美津岐神社を勧請したものと推測されます。
※ちなみに、坂本龍馬の脱藩の道として佐川町と越知町は知られております。観光で盛り上がりつつあります♪



 様々な地域で慕われた勝頼の妻である三枝夫人(北条夫人)(後の時代の呼名を美津岐)
武田八幡宮に願いの込められた願文を奉納した人物なのかもしれません。
 その願文からも分かるように、勝頼と武田の行く末を神に乞い願う気持ちが込められております。

 その願いは、土佐では叶えられたのでは無いでしょうか、多くの縁により支えられ、子孫は繁栄し、武田家の霊を慰め。武田としての復活は成らなかったものの、勝頼と夫人の与えた影響は大きかったのではと考察いたします。
 多くの史跡を残すに至った夫人の人柄は、明るく、人当たりが良く、聡明で活発であったものでしょう。勝頼はその夫人に支えられ、新たな道を歩む事を考えたのだと思います。


 
北条夫人の願文を掲載します。

 祈願の事
敬って申し候。
南無帰命頂礼八幡大菩薩、此国の本主として武田の太郎と号せしより此のかた代々護り給う。
ここに不慮の逆臣出で来たって、国家を悩ます。よって、勝頼運を天にまかせ、命を軽んじて敵陣に向う。
然りと雖も、士卒利を得ざる間、その心まちまちたり。
なんぞ木曽義昌そくばくの神慮をむなしくし、あわれ、身の父母を捨てて、奇兵を起こす。これ自らの母を害するなり。
なかんずく勝頼累代重恩の輩、逆臣と心を一つにしてまちまちに覆さんとする。万民の悩恨、仏法の妨げならずや。
抑々、勝頼いかでか悪心ならんや。思いの炎天にあがり瞋恚なお深からん。我もここにして相共に悲しむ。涙滾潤たり。
神慮天命まことあらば、五逆十逆たるたぐい、諸天かりそめにも加護あらじ。
この時に至って神心。私なく渇仰胆に銘ず。悲しきかな。
神慮まことあらば、運命この時に至るとも、願わくば霊神力をあわせて、勝つ事を勝頼一しに告げしめ給い、仇を四方に退けん。
病魂却って迷を啓き、衆命、衆恩、子孫繁昌の事。
右の大願成就ならば、勝頼、我と共に社檀みがきたて回廊建立の事。
敬って申し候。
           天正十年二月十九日
                        源勝頼内





夫人の御霊、安らかなれ、そう祈念いたします。
posted by makkun at 10:32| 高知 ☁| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
会長様おはようございます。
久しぶりのご連絡です。
勝頼様ご子息の信勝様が、下仁田に立ち回り最終的?に房総の智蔵寺にお位牌があるということですが、そうなると以前からこうちゃんが言っていた、土佐へのルートはやはり利根川の舟運を利用しての結果ではないかと思いながら、読ませていただきました。
また、勝頼様北条夫人三人での土佐行きが十分に考えられることも可能であると、確信いたしております。
そうなると、理桂尼記にある天正10年3月の7・8日頃の大善寺にて叔母の理桂尼様との表記をどのようにとらえたらよいのでしょうか。
こうちゃんは、この部分の記録は、すべて影武者説を考えております。
従って、新府から土佐までのルートも簡単に記すと、新府、下仁田、房総武田氏を頼っての江戸湾?武田水軍での土佐到着このように考えておりますが、いかがでしょうか。
宜しくご示唆賜りますようお願い申し上げます。
Posted by こうちゃん at 2013年11月06日 05:50
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