
私は「大」という字がなぜか好きです。あなたはどですか?

武田勝頼は、「大」と一文字で書かれた旗を自分の軍旗として使っておった事は、勝頼ファンの多くはご存じでしょう。「風林火山」が武田の旗として最も知られておりますが、勝頼は「大」と書かれた軍旗を使用しました。
父である武田信玄が遺言として「武田の旗、孫子の旗、将軍地蔵の旗、八幡大菩薩の旗、いずれも持たさず、大の文字の小旗で出るべし」
と大体この用に遺言されました。
また勝頼の長男の信勝が成人した際には、武田の旗など全て使っても良いとされ後継ぎとするとしました。
「大」の文字を使えと言われた勝頼は、この文字を使い軍旗とします。
なぜ「大」であったのか?

勝頼は、父信玄と諏訪に居る側室の母由布姫の間に生まれた子供で、正室の子ではない。
また武田家には代々「信」という一字が与えられるのだが、勝頼には与えず、「諏訪」の姓を与えられ、「諏訪四郎」と名乗った。
後に、諏訪家の名跡を継ぎ、「頼」の字を与えられ、「諏訪四郎勝頼」と名乗った。 つまり、勝頼は「武田」の血の流れを持つ「諏訪氏」とされたのであります。
信玄は正式な後継ぎを決めるのに、勝頼と織田信長の姪の間に出来た「信勝」を正式な後嗣と定め、勝頼はそれまでの後見を命じられた。
勝頼が正式な後嗣とならなかったのは、諏訪氏の名跡を継いでおり、また織田氏との関係、父である信玄を神格化して勝頼を同格と見なさない家臣団をも考慮してのものであった。
そして、信玄は遺言を行う時にも同様に、家臣団の気持ちを考慮して、勝頼には「大」の旗を持つようにとの遺言された。
「大」、これは勝頼に対する愛情であり、天下を託した証であると受け取れます。
「大」という字の意味を見てみましょう!。
◆「大」という字は、ご存じの通り、人に当てはめれば大統領、大臣、大将など、
大とはトップである一人の事を指します。
「人」という字に「一」を合わせると「大」の字になります。
「天」とは、「天空」であり、「神」であり、神聖な領域を指します。
「天」から上の「一」を引くと「大」となります。
つまり、「大」は天下を意味します。。
信玄の遺言で託されたのは、勝頼に「天下を取れ」の意味で、
勝頼はこの意を汲み、これを敬い、 「大」の一文字を使った。
勝頼は、この「大」という字をとても気に入ったのではないでしょうか。
父信玄の、このまま天下一だ!という意味が込められているようにも思うのです。

■「がんがら火祭」をご存じでしょうか?
山に松明で「大」の一文字が描かれる壮大で美しい祭です。
その「大」の由来には
「愛宕祠 山路七、八丁の処に在り、七月廿四日の夜、松明を点じて大と一との二文字を現はし、以て法会を修す。」
とあって、この頃に大一文字(大一の意味は、大は天を、一は大地を松明は人を象徴との記載=愛宕神社縁起)になっています。
また『説文解字』には
「天は大なり。地は大なり。人も亦(ま)た大なり。故に大は人の形に象(かたど)る」ともあります。
◆武田勝頼は、土佐へ落ち延びて来て、その再考の地と定められたのが、
「大崎」でありました。
先のブログで「崎」に関しての考察が公開されました。
以下のURLです。http://katsuyori.seesaa.net/article/119746336.html
「崎」というキーワードから判明しておることは。
諏訪のお殿様(諏訪家)が観音院(正福寺)を訪れる際には船で諏訪湖を渡って来て祈願をしておりました。
そのお殿様が船をつけていた船着き場は、お殿様が船をつける崎(みさき)ということから、「殿崎(とのさき)」と呼ばれ、今もその名が語り伝えられています(殿崎物語を出版している人もいます)
その観音院で母(由布姫)が療養しており、勝頼も観音院で生活していた時があると思われます。
従って「崎」の言葉から知る人ぞのみ浮かぶ文字(漢字)は『殿(との)』となります。勝頼の子孫は、「崎」をキーワードに残し、現在も「大崎」「尾崎」「小崎」「山崎」などと姓の中に「崎」を持つ方が多いのです。
勝頼が土佐に来た時、 「大崎」という地名を、これぞまさしく

「大崎玄蕃」を名乗ったのにも、その様な背景が伺われます。
「大」「崎」「玄蕃」
名前全部にキーワードがあったのです




PS.私が「大」という漢字が好きなのは、なんか気持ちもポジティブになるからです!
「大」という字が簡単なので、子供でもすぐ覚えられ、これを何度も練習します。
小さい頃からこの「大」という字が基本なのです。
大きいもの、大都会、大量、大改造!
これ以上は無いって意味にとらえています。
最近では「超!」という言葉が出てきましたが、いずれはこれをも上回る言葉が出てくるんですかね(笑
今は「神」を使いますね。超すごい→神だなみたいな感じです(笑
久しくブログ運営から外れておりまして、
ずいぶん前のコメントへの返答となります。
「大」の大氏との関連をご教示いただきありがとうございます!
諏訪の建御名方神を意味する旗印を持つということは、
信玄から、それ(諏訪)を託されたのかもしれませんね。
言い伝えでは信玄が「大」の一文字を勝頼に与えたとのことなので、
そう理解できました。
また、稲吉からつながる土佐の南国、稲吉神社に関しても興味を大変持ちましたので、足を運ぶ機会を作りたいと思います。
「土佐 御免町 稲吉」で検索すると分かります。近くに物部川もあります。854年には「物部稲吉」という人物もいました。
諏訪御料人:小見(麻績)はアズミとも読めます。安曇は海神族。
海神族、出雲族(大氏)、物部氏は繋がりある一族。
太方様はオダイボウサマでなくオオカタサマ(大氏)と思えます。
ここから「大」の字の旗印が生まれたのではないか?
大国主の時代から1530年頃まで大氏の名が受け継がれていたとしたらば、昔の人の口伝えに感心します。
ちなみに、猪苗代湖がある福島県にも安曇に関わる多くの地があります。
武御名方神は大国主神の子で、大氏。
一方、徳川家康の遠祖は鴨氏?で、その祖は大田田根子。
大田田根子は大物主神の子。
大国主=大物主?で大氏。
とすると、家康は諏訪勝頼を同族とみなし逃がした(遠流)?
大国主は「国譲り」以前には、日本国中を回り、弥生縄文人たちに、
医療、農耕、生活技術や共通語等を教示して歩いたとの言伝もあるようです。打出小槌で知恵を出し、大きな袋からは色々な道具等を出し、
日本国中を豊かで平和な国にしようと努力していた人(神)です。
コメントをまことに有難うございます!
「大」の由来などが、ここまで詳細に、歴史も深く、また有難い神様とのつながりを持っていることに驚きました、同時に畏敬の念を覚えます。
管理人の私は詳しくは無いのですが、会長が興味を持っており、また時間の折を見てご返事をさせていただます。
できればお会いする機会も作りたいところです。
どうぞ、今後とも宜しくお願いいたします。
854年には物部稲吉(イナギ)という人物がいた。
日本武の征西に大水口宿禰の孫矢田稲城(弓の名手)が同行、強弓で日本武を救う。またの名を大屋田子(大氏の矢田子)(大彦の孫?)
13代成務天皇時代には「矢田稲吉」が魏志倭人伝の末羅國造。
矢田稲吉の祖父は大水口宿禰(大国主の国譲り時代に、10代崇神天皇に仕えた。)大田田根子も同時代の人。卑弥呼の時代とも重なる?
土佐御免町の稲吉について、以上に関りがありそうな情報があれば、些細なことでも構いませんので教えてください。
母の実家の襖の裏張りが岡崎城の台所帳であった事が判り、岡崎市に寄付されています。
詳細にありがとうございます。
是非とも、土佐の御免町の稲吉について足を運んで歴史を探してみたいと思います。また、現在まで記載いただいたコメントも含め、会を持って進めて行きたいと考えております。
分かり次第私もここに書き込みなどしたいと思いますので、どうぞ宜しくお願いいたします。
会長のメールアドレスは
kindsea@shirt.ocn.ne.jp
また、何かございましたら、メールなどでもどうぞ。