昨年より仁淀川町の元教員の西山様から連絡が有り、山梨の県人会で藤本電業の社長様と高知県に武田勝頼の史跡などがある事を話題に出して頂き、興味を持って頂きまして今回の訪問やつながりが実現致しました
武田様一行が仁淀川町に来られました事に、一同皆感激いたします
より良い交流発展へとつなげて下さり誠に感謝しております
このことを土佐に眠る武田の御霊たちも待っておったのではないでしょうか、本当に嬉しく思います!
また、タクシーの運転手様、安全かつ丁寧にご案内して頂きまして誠にありがとうございます!
またこの訪問は高知新聞にもカラーの欄で掲載され、反響を呼びました!
◆武田邦信様は 高家武田氏16代目当主であり
「武田家旧温会」顧問
武田神社崇敬会総裁
を務められております
邦信様は武田信玄の二男に信親(別名を竜芳)の家系であります。
◆有泉晴廣様
元山梨県観光部長
高家武田様に今回の訪問を提案して頂いた方です、
奥様と一緒に来られました
◆藤本電業株式会社の藤本社長ご夫妻を始め御一行
◆元仁淀川町の教員の西山様
の8名が来られました
午前11時過ぎに、武田御一行様が仁淀川町に到着致しました
まずは大崎八幡宮22代目の開いた道場であいさつと昼食会にしました
いろいろなお話をしながら、昼食をとり、
道場で保管されている鏡を武田邦信様に見て頂きましたところ
「武田の裏家紋としても使われて女性がよく使う紋」だとご教授頂きました。
なるほど裏家紋、銅鏡は女性が使うものでありますから、姫が使っておったものであろうという事です
銅鏡に関しては面白い事に我々の管轄しておる神社には沢山納められていて、女性が使うために作られたものであると思いますが、その美しい作りゆえに御神鏡として使われている神社が多くあります。
この鏡は武田の裏菱が入っておるということは勝頼の夫人が使っていたことも考えられます。
ロマンがまた1つ膨らみました
【仁淀川町の町長への表敬訪問】
昼食を終えましてから、仁淀川町役場へ向かいました
仁淀川町町長に表敬訪問いたしました
大石町長、大野教育長への表敬訪問が実現しましてありがたく思います!
・ 町長はあいさつで、仁淀川町の伝統の多い文化や、この町の武田勝頼の伝承の発掘など、これからも盛り上がって行って欲しく、自然も美しいのでぜひ堪能して行って欲しい、また桜も例年よりも早く咲いておるので見頃である事など仁淀川町の良いところを、しっかりとアピールされておりました
(そう桜は例年より10日ほど早く咲き始め、4月1日現在もしっかりと咲いております、これほど長く咲く事はとても珍しい事です。)
・ 武田邦信様から訪問の挨拶を賜りました
信玄の次男の家系のご説明と、この土佐に勝頼が来ていた事に興味を持たれ、また山梨の方では、勝頼に関する天目山の戦い以降も含め詳細の事に関しては研究されておらず、土佐の方で勝頼に力を入れて研究されている状況を今後も続けて行って欲しい、ここまで会を大きくしてきたわけだから大事にしてほしいとの、とても有りがたいお言葉を頂きました。
また武田は水軍を有しており、その時の水軍の状況がどうであったかは今後の研究に委ねられるが、船を使って四国へ来るという事は考えられる事であり、香宗我部氏など武田の一族を頼る事も考えられるとお話になりました。感謝いたします
・元山梨県観光部長の有泉晴廣様は、この高知に武田勝頼が来ていたということを聞いて、興味を持たれ武田邦信様をお誘いして頂きましたこと誠に感謝いたします
山梨と高知の交流がこれからも活発化して行って欲しい、この高知に武田勝頼が来たということが素晴らしい事で、山梨と高知の交流になればとても幸いであり、これからもますます頑張ってお互いの交流に励んで行きたいと熱く語って頂きました
・武田勝頼土佐の会の岡林会長は、この土佐に、16代目当主であり、
武田家をまとめる武田家旧温会の顧問も務められる武田様、元観光部長様、県人会の皆様に来て頂いて、本当に感謝しておると述べ、
土佐の武田家の子孫もこの場に呼びたかった、ここに武田信玄の次男から続く現当主が来られる事は素晴らしい事であり
勝頼たちも喜んでおられるのではないだろうか、と話をし感謝を述べ、今後の会の活動や豊富などの意気込みを語りました
実り多く、発展につながるお話しが素晴らしい訪問でした
役場の外では、記念写真を撮影しました
【大崎八幡宮】
この大崎八幡宮は元は「川井神社」という名称で、武田勝頼が建立したと昔から親しまれております。
当主様一行が来られましたので、せっかくでございますから、
武田神社から携えて来たといわれる「木像=武田家先祖」の御神体、神主の系図(史料)と照らし合わせて見て頂きました。
【ひょうたん桜・武田半四郎墓】
勝頼が薬として持って来ていた桜の種が現在のひょうたん桜となったのだと伝承があります。
そのひょうたん桜より東へ数分行ったところに、武田半四郎の墓があります。最近になって、この半四郎という人物が誰であるかというのが分かって参りました。次回で説明いたします。
とても美しい風景が自慢であります、また山梨から来られた方々が、
ここから見た山の形がとても何処どこに似ているから勝頼はここを選んだのではないかと仰っておりました。私も聞き逃したのですが、それはとても興味があります。
<武田半四郎墓前>
会長が半四郎様名の説明をしております
この日はとても風が強かったですね
【鳴玉神社】
改めまして、鳴玉神社へ行き、全員で勝頼と夫人のお墓を参拝致しました
戦国の当時では、まさか勝頼の兄弟である信親(竜芳)の子孫が
自分達の墓の場所を知り得ることなど想像もつかなかったでしょうし
来られて参拝されるなんて夢のような素晴らしい出来事ですね
ここでも記念写真を撮りました
武田邦信様方々にも参拝祈念帳にサインをして頂きました!
これはありがたい
【武田信勝・信房の墓への参拝】
信勝と信房は勝頼が没した後も活動されていたものと考えられます
この信勝と信房の墓は、系図が示す場所にひっそりと祀られております
【寺村の観音堂(流光山成福寺)・勝頼の次男である正晴の墓】 この地は長宗我部氏の家臣である寺村氏の治める土地でありました
そこへ勝頼は武田家の菩提寺として寺を建立します
昨年より中島住職様が来られて、新たな視点から寺の重要性を考えており、今後も研究される場所です。
諏訪の復興を願っていた勝頼らしく、母君の寺を思い起こす寺名や厨子などなど興味の絶えないお寺です。
またここから見た風景が諏訪の観音院の様だと仰られた中島住職様の感じた仁淀川をごらん頂きました
観音像を開帳させて頂き、武田様一行に見て頂き、会長のこの寺の由来などの説明を聞いておられました。
【檮姫の墓】
越知町の横畠の栂ノ森という場所に、勝頼の娘の墓があります
この墓には、偶然なのか、それとも人為的なのか、墓石には天然の白い筋が武田菱を象っておるように見えます
この地区の区長さんが、墓守を続けていらっしゃいます
後日このお墓で新たな墓が出てくるのですが、それは次回に記します
この姫の夫である左馬助に関しても伝承があり、それも次回に記します。とてもロマンチックな伝承です。
長時間に渡る訪問も終わりの時刻となり、
武田様御一行もとてもお疲れになったかと思います。
越知町の横倉の橋でしばしのお別れの挨拶とし、山梨へ私たちも訪問させて頂く約束を致しまして、無事な帰途をお祈りさせて頂きました。
本当にありがとうございました
これからも勝頼の研究に邁進して行きたいと思います
・活動から約一年と少しでありますが、このような大きな展開になった事は素晴らしい事ではないでしょうか
大崎玄蕃が武田勝頼であると、公言をし始めてわずかな間に、
諏訪の観音院からご中島住職様が来られ、400年の法要をして頂き、
また多くのファンや研究者が訪れ、武田関係者や末裔の方々から情報を頂き、信玄の次男である信親(別名を竜芳)から続く現在の殿様に来て頂いて本当に感激しております