今回は勝頼が行ったと云われる「大山鎮め」
最近になって少し分かって来たことがあります
昭和2年(84年前)12月27日の土陽新聞に勝頼が大山鎮めを行った事が掲載されていたのを発見するに至り、この伝承を詳しく調べてみる機会を得ました
こちらが昭和2年の新聞です↓
大山鎮めの事に関して書かれている事をピックアップすると
武田勝頼(変名大崎玄蕃)というもの、この地に移住した当時に大山鎮めとして、樹下(桜の種を撒いた場所)に大山祇神を祭祀したと云われる
樹齢が約430年(地元民は500年と伝える)の
大藪彼岸桜(ひょうたん桜)に樹下に大山祇神が祭祀されている事は聞いたことがありました。(※伝承の詳細は一番下に記述します)
それが昭和2年の新聞にも書かれているぐらいですから、だいぶ以前から云われていたんですね
さて、この大山祇神が祭祀されている「ひょうたん桜」の場所から
真西を見ると宗津という集落があります、そこに大山祇神社があります
この大山祇神社から春分の日に太陽が昇る場所は、ちょうど勝頼が「大山鎮めを行い大山祇神を祭祀したひょうたん桜」のある場所の真上なのです。
これには驚きました。太陽信仰なのでしょうか
その伝承を確かめる為に、宗津の大山祇神社に行って来ました
こちらが神社の参道です
宗津の大山祇神社
それで、大山祇神社の向いている方向を方位磁石で見てみると
南東を向いていて、参道も同じく南東へ続いております
そして真東には仁淀川町の桜が存在し、この場所から春分の日に日の出を見ると、大きなひょうたん桜の真上にあたる場所から太陽が登るという事です!
こんな感じでしょうか↓
本来ならば3月21日(春分の日)に見に行くべきでしたが、その日は天候が悪くあきらめましたので、また近日日の出を見に行ってみようかと思います。
◆グーグルアースの航空写真から見てみるとこんな感じです◆
武田勝頼がこの桜(旧大崎村大藪)に来た時に、
この地を再興の地と決めて持ってきた杖を立てました
(この杖を立てるという行為に重要な意味があるようです)
そして大山鎮めとして、この場所に大山祇神を祭祀します
そこへ薬として持って来ていた桜の種を撒いたという事です
大山祇神社から春分の日に太陽が昇る真下にこの桜はあります
この大山祇神社と、勝頼のつながりとは?
大山祇神社も、勝頼の生まれた諏訪も、神官は大祝家(おおほおりけ)と呼ばれております。
実際はここをもっと調べる必要があると思うのです。
勝頼がちょうど良いポイントに大山祇神を祭祀したには訳があるはずです。
この桜という地域は武田勝頼(変名;大崎玄蕃)が開いた土地であると云われておるぐらいですから、集落を作る際に、真西にある宗津を訪れて大山祇神社に行ったのでないでしょうか?
当時の人間というのは宗教観でこの世界を見ていましたから、常にそのような場所には何らかの配慮なり行ってきたのではないかと考えます。
PS
昭和2年の新聞に山田氏が出てきますが、山田氏はこの頃は存在していなかったと云われております。
また子孫の持っておる全系図には山田氏の記述は出てきません。
昭和2年というのはすごいですね!84年前の新聞という事です
土陽新聞とは?(クリック)