本日は武田勝頼2010「春の陣」歴史ミステリーツアーその2)【3月28日】が引き続き行われました。 (その1はこちら)
主催は武田勝頼土佐の会
この度の【春の陣】企画が無事に成功し、平家の会、大崎半四郎の会とも連携が取れました事を心より感謝いたします!ありがとうございました
集合場所は
(〒781-1501 仁淀川町大崎214 仁淀川町基幹集落センター前)
ツアー一行は、まず勝頼夫婦の墓前である鳴玉神社へ向かいました、ツアーでは必ず勝頼の墓が含まれております。
【大崎半四郎の墓前へ】
大崎半四郎という人物は武田信玄の三男である信仲のさらに嫡男で、
名前を安行と云い、大崎半四郎を名乗ったことが系図からも見られます。
定説では信玄の三男は夭折(幼くして亡くなる)しております。
ただし、石碑の裏には後の時代(昭和31年)に間違った?内容が刻まれており
それを読むと混乱する方も多いのですが、簡単に石碑の裏に刻まれた内容を記載しておきます。
「甲斐国領主武田信玄の次男にして大崎玄蕃の弟なり、天正13年2月8日大崎川井土居に住み、大崎半四郎と名乗る、慶長15年3月14日土佐領主の追手のため討ち死にする」
※伝承および系図では、信玄の三男の嫡男(信玄の孫)であることを申し添えておきます。
桜の季節まっさかりの仁淀川町内は、役場総出の交通整理のもと
ひょうたん桜の郷に行きました。
ここに半四郎の墓は有ります
参加者は県内はもとより、兵庫県からの参加者もあり、また、大崎半
四郎の会(勝頼の兄の子と武田勝頼土佐の会では推定)との連携もありました。
この日は土佐に残された武田家系図にある勝頼の兄の子とされる仁淀
川町桜地区(ひょうたん桜の名所)に墓所のある「大崎半四郎」の墓所見学
及び同地区で行われる大崎半四郎追悼式典に参加し、交流会や勝頼一族
のミステリーミニ講演会を行いました。
「大崎」性は、武田家の子孫の性と考えられており、大崎半四郎は地区では
昔から、墓所を守ってきたとのことです。
神事もおごそかに行われ、県内の勝頼ゆかりの「大崎さん」も参加くださいま
した。(大崎、山崎、小崎・・・など関連ありと言われている)
半四郎の墓の社には、武田信玄、武田勝頼、武田半四郎のいずれも夫婦の位牌から分け御霊した位牌が昭和31年に、本位牌より分霊され勧請されておりますそしてここは武田神社と呼ばれております。
桜から見た風景↓
位牌や札でございますが、よく見ると武田神社と書かれてあります。
そう、ここは古より武田神社とも云われております。
ミニ講演会では、勝頼の伝説や関係史跡のことなど会長から説明もあり
また加えて、DVDにより勝頼伝説もビジュアル的にも学び、より一層、理解を深めました
(↑新兵器!ポータブルDVDプレイヤー、あちこちに設置してます)
交流会では、大崎半四郎会会長や平家会の方の挨拶もあり、交流を行いました。
【大崎半四郎の会、会長の片岡盛正様】
現在の勝頼の子孫の大崎氏に関して詳しくお話頂きました。
大崎姓は地域ごとにまとまって、県内に点在し、その場所自体に意味があるとの事です。そうですね、私もそう思います。
津野町の貝(甲斐)の川なんか、その良い例です。
【平家の会からも昨日に続き、新たに2名参加して頂きました。】
仁淀川流域の観光振興でも、”仁淀川流域の伝説”としてコラボしつつある
平家会では、今年の4/29、10/3に大きなイベントが予定されています。玄蕃太鼓や、安居神楽の奉納も行われます。
(画像チラシ参照)
本日の桜も美しかった!ちょっと雪がチラチラして寒かったですが
次は夏に向けたイベントの取り組みに力を入れて行きます♪