生きていた!?武田信豊一族
というところから紹介をしたいと思います。
伝承である左馬介と檮姫(勝頼の次女)の甲斐での婚約〜
〜そして土佐で結ばれたというロマンスを紹介します ;
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『武田信豊』とは、信豊の父である信繁は、武田信玄の同母弟(信虎の子)で、その信繁の次男である武田信豊は武田勝頼とは従弟(いとこ)であり、仲も良く、武田家臣団においては勝頼を補佐していた。
また穴山信君の息子の勝千代と勝頼娘(檮姫と土佐では名前が系図に記載)の婚約を勝頼が破棄し、その娘を武田信豊(信玄弟・信繁の息子)の嫡子と婚約をさせました。このことが原因で穴山信君の離反はあったと云われております。またそれが武田が滅びる事となった一因であると考えられております。
この時に婚約したのが、信豊の嫡男と勝頼の娘(檮姫)でしたが、
その後、武田は滅び信豊の嫡男と檮姫は、それぞれ別々の悲運な道を歩むこととなります。
(定説では)武田信豊とその子等は、小諸城内では織田に寝返った下曽根勢と信豊勢の戦いで切腹して最後を迎えております。
また檮姫も、天目山にて父勝頼と共に13歳で亡くなっております。
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上の写真は越知町横畠八頭(館城)・清水集落周辺の写真
山本氏がこの地域を支配し舘主だったと云われています、又柴尾も山本氏の支配する所かと思われます、現在も横畠には山本姓が多い。
左上に黒森山を望む(写真)
中央上の峠が「道分かれ」と言って全ての道が合流していて街道の要衝でありました。
松山街道:是より奥地(大崎池川・伊予)への通用門ともなっていてジョン万次郎や岩崎弥太郎も帰国の時この道を通る。
(尚、系図には武田信豊が生き延びたという記載はないので、あくまで伝承とお考え下さい)
この横畠左馬介貞秀(武田信豊の嫡子)と、檮姫(勝頼の娘)は甲斐より、海と山を越えた遠い土佐の地で(奇跡的にも)目出度く結ばれ、
![ムード](https://blog.seesaa.jp/images_e/155.gif)
ただ檮姫は病弱で、文禄(1593年)葵巳の2月8日に24歳で亡くなっております。
結婚してから十年足らずの間に亡くなったのであろうと思われます。
また、勝頼も左馬助が来た事が心強かったことでしょう
![グッド(上向き矢印)](https://blog.seesaa.jp/images_e/145.gif)
横畠左馬助貞秀は、山本氏に仕えてからは山本左馬助となります。
長宗我部家臣団の名簿にもその名前(山本左馬助)が見られます。長宗我部元親の元で一緒に戦った武士でありました。
(※山本氏はあの山本勘助と関係があったと云われ、土佐にもいくつか話が残っております。香宗我部氏との関与などの説)
地検帳から見ますと、高岡郡佐川郷タマハリノ村タマハリノ南のホノギ(小字)には、共に左馬助と大崎玄蕃の控え地が有ることからも、姻戚関係からすると共同で土地を使用していた証拠であります。
長宗我部地検帳には土佐市の谷地に大崎玄蕃の土地が有ることから、片岡氏の南限まで共に活躍したとも考えられ片岡氏と深い関係で有ったことが想像されます。
さらには、山内氏の家臣である深尾が佐川の領主として入って来てからも、勝頼の子孫達は場所を動かずに、城を構えており、近年までは武家屋敷「沖の古城」と呼ばれ、武田菱の家紋の付いた棟瓦が数カ所に見られましたが、現在では取り壊されてしまいました。(詳しくはこちらをクリック)
大変残念なことです。
佐川の領主が深尾となった後も勝頼達一族がその場所に城をもてた背景には、「渡来系の栽培用の茶が来るはるか昔より石灰石系の地質上に自生する、特別なお茶、【山茶】を(現仁淀川町から運んで来て)深尾の殿様に献上」していたのではないかと考えられております。
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実際に仁淀川町の山茶は深尾の殿様に献上されていたようです。現在でも土佐の仁淀川町では採られており、一層お茶の美味しさが感じられるお茶です。
![るんるん](https://blog.seesaa.jp/images_e/146.gif)
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武田晴信(信玄)に甲斐を追放された父の信虎は、その後、京に出て、男子をもうけたといわれていますが、その子は後に武田信顕と名乗って阿波へ行き、三好氏に取り立てられて脇城主になったということです。
しかし、信顕はその後長宗我部の侵攻に遭い、讃岐に逃れ果てたといわれています。その供養の墓碑が現在の東かがわ市の東照寺にあるといいます。
また、長篠の戦いや天目山の戦いの敗戦により、武田信玄の弟の信綱(武田勝頼の叔父である信綱)が讃岐を経由して阿波貞光に入り、
その後を追って、信玄の孫の武田左馬介信豊、弟武田左馬介信政、信玄の弟の信基らも讃岐を経由して阿波の太田邑(おおたむら)に入り住んだといわれています。
この時すでに「甲斐名賀六信次」という脇城第一家老が太田邑には住んでいた。
このように、甲斐武田氏にゆかりのある者が阿波に入っていったのは、ルーツを同じくする三好氏がいたからだと考えられています。
讃岐の十河氏も三好氏を通じて甲斐源氏の血が入っていますから、甲斐武田氏にゆかりのある者が頼って来るということは十分考えられます。 この阿波の太田邑、明治九年(1876年)高知県阿波国美馬郡太田邑となっております。
![かわいい](https://blog.seesaa.jp/images_e/148.gif)
【1】阿波の史料に、武田信豊らが生き残り来ていたという事が記されておることや、
【2】また左馬介というのは、官職である左馬介の唐名である典厩とも呼ばれるもので、信豊の父も典厩である左馬介を名乗っていたことから、その嫡子も左馬介を名乗ったのではと考えられること、
【3】伝承と、長宗我部地検帳に伝承のある場所にちゃんと左馬介、そして左馬介と勝頼共同で記載があること
【4】信豊の次男も小諸城では死なずに、生き残り子孫が代々続いておること
【5】左馬介の妻である、「檮姫」も墓守りによって代々祀られておること。
この伝承が単なる作り話とは思えないような気がします。
過日、檮姫の墓参りをしたとき、これが檮姫の墓だと思った武田割菱のように見える筋が入った墓前に立とうとしたとき、風が吹いて2つ右隣の墓の前に米が全部落ちました。
もしかしたら、「私の墓はこちらですよ」と教えてもらったような気がします。
このような面白い伝承を大事にして行きたいと思います。
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これは阿波の史料の一部ですが、阿波の武田の詳細を知りたい方は
■「貞光町史」貞光町史編纂委員会 昭和40年
138-150p「大田殿考(武田逍遥軒信綱考)
■「脇町史」脇町 平成11年発行の511pと522-523p「脇ノ城」の項
523pには、信顕公の墓(香川県大内町・東昭寺)の写真(白黒)掲載あり。
「脇町史 上巻」
・511p「(四)長慶、脇ノ城を築く」の項の文中に、
「弘治二年(1556)、長慶の幕政支配が確立し、脇城代も三河守兼則に代わって武田上野介信顕が入っている。」という一文が出てきます。
■「姿なき阿波古城」鎌谷嘉喜/著 昭和60年
40p「阿波の城跡と城主」の表中
119p「武田氏略系図(脇城)
■「脇城由来記」真鍋利夫/著 平成10年
15-17p「武田上野介、脇城主となる」
21-24p「脇城合戦」
なお土佐の系図などには信豊に関する記載はありません。
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