2010年12月30日

勝頼の妻、三枝夫人に与えられていた土地 〜 勝頼と妻にまつわる柿木の昔話

今年も残すところあと僅かとなりました。

 仁淀川町も雪が降ったり寒い日が続いております。雪

 今回が今年最後の記事となります。今年も勝頼の会では様々な調査やイベントが皆さまのおかげで無事に行われ、やっと年が越せます晴れ本当にありがとうございますぴかぴか(新しい)

 わーい(嬉しい顔)さて、最後の記事は勝頼の妻を題材とさせて頂きます。


hachiman3.JPG


土佐では勝頼の夫人は、三枝(さえぐさ)「みつぎ」夫人と呼ばれております。

ひらめき最近地検帳の調査から判明した事を次のように考察しました。

大崎八幡宮から大崎の中心地(信勝の墓所・八幡宮の間写真左半分)の田んぼを含む5反強の土地が御次(みつぎ)大明神領となっています。

その内6割位の田んぼが神田八幡領と成っていました。
御次は「みつぎ」と読むと思います。みつぎは三枝と読替る事が出来ます(美津岐夫人=三枝夫人の変名より)。

 佐川町の美都岐(みつぎ)も、その場所にある満木(みつぎ)神社もそれぞれ当て字ですが、呼び名、そして伝承などが同じと考えられております。
     かわいい勝頼夫人に関する以前の記事


 武田勝頼の妻といえば北条夫人が有名ですが、土佐では三枝夫人。

どちらの人柄も人にとても好かれる人物であったと考えられておりますハートたち(複数ハート)
夫人がご神体として祀られるなどの風習が残る事、土地の名称として残る事などから推測できます。




眼鏡勝頼と三枝夫人にまつわる昔話を1つご紹介いたします

houjyou2.jpg
 

古くから土地に伝えられておる話です。地元の古老から知っておる部分のみお話をして頂きました。 

武田勝頼が土佐の大崎村に来たばかりの頃、
大崎村に到着した勝頼は顔中にひどい発疹(ほっしん)が出ていたと云われております。

 夫人は勝頼のその姿を見て哀れに思い、昔、母から習った柿渋(かきしぶ)薬を作りを思い出し
地元の民に案内してもらい現在の小森(こもり)に沢山生えていた柿の実から柿渋を作って、勝頼の顔に塗ったところ長い間続いた発疹はひいて元の顔に戻ったと云われております。
 地元の民はそれを見て驚いた事でしょう。ぴかぴか(新しい)

 現在でも、夫人の眠る墓の前に建つ鳴玉(めいおう)神社は病気や発疹を治す神様として、お参りする人がおります。 そして系図にも書かれてある勝頼夫婦の墓の場所を示す「土居屋敷 柿ノ木の元に葬る」を見ると柿の木との関連が思い浮かばれます。

 夫人が勝頼の墓の場所を、柿の木の元に定めたであろう事から、柿の木により勝頼達が救われた事ゆえに、そうしたのかもしれません。

 その柿の木は現在では樹齢400年を超えるものと言われ、皮のみの状態ですが、赤い柿の実を沢山実らせます。ぴかぴか(新しい)


 
-社家岡林家-
 明治5年頃の廃仏毀釈で焼かれた祠跡が八幡と神田の間にあり(子供の時に聞かされた)屋号が「かじや」と言います。つまり、かじやは「梶屋敷」、梶の葉の家紋は諏訪大社(諏訪大明神)の家紋でもあります。

 廃仏毀釈はお寺さんを排除するものですからお寺若しくはお堂が有ったはずです。
諏訪大社上社には戦国時代神宮寺が有ったので、神宮寺では無いかと思います。

 その梶屋敷の住所は現在も岡林氏の一族が所有する屋敷です。
織田軍の先方隊織田信忠は天正10年諏訪になだれ込んだときに諏訪大社特に上社を焼き払ったとのこと、神官衆も命からがら逃げたんだと考えております。

大崎八幡宮の初代は(社家岡林氏から)大祝源勝貞(八幡宮初代神官)を名乗っていた事から、三枝氏と関係する諏訪の神官(武士)が勝頼達を助けて共に土佐大崎村まで落ち延びたのではないでしょうか。


 今年も後一日、来年も良いお年をお迎え下さい!ぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)
晴れ晴れ晴れ
posted by makkun at 11:42| 高知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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