信玄公生誕500年事業 親善調査研究に参加
2022年4月8日高遠城
高遠桜で有名、勝頼が生まれ城主だった城。
勝頼の弟、仁科盛信が武田家最後の激戦で玉砕した城です。
桜はまだ三分咲きと言う所でした。長野県の天然記念物「固有種で江戸彼岸桜」
今回調査に参加したメンバー武田勝頼土佐の会の会員達。
仁淀川町の「ひょうたん桜」と同じ蕾がひょうたんの形をしています。
勝頼達が落ち延びる時、桜の種を何らかの形で土佐まで持ってきたと考えられる。
鳳凰山願成寺にて、韮崎の「武田の里を守る会」の歓迎セレモニー
甲斐武田家発祥の地、武田信義が近くの武田八幡宮で元服式を行い神社を再建したと伝わって居る。
勝頼は甲斐を落ち延びる時御神体の「御正体」新羅三郎義光から武田信義まで4代12人の御魂を持ち出して土佐の仁淀川町大崎、大崎八幡宮に天正14年建立した時に奉納したと伝わる。
なお、武田八幡宮は今年創建1200年と大きな節目だそうだ。
願成寺山門の横に植えられた「ひょうたん桜」宇宙桜(桜は終わって葉桜になっていた)
写真後ろの桜ですが高さ5m位に育っています。
願成寺境内にある、武田信義の墓前で武田の里を守る会小林会長と一緒に写真
韮崎市民交流センターで桜の交歓会の時同席した方です。
下の写真はひょうたん桜に再開した記念写真樹高5m以上かと思います。
平成24年に韮崎で桜の交歓会を行った時を思い出します。
ひょうたん桜は語る リンク平成24年のブログ
平成24年のブログです前列右端が当時の小林さんです。
駐車場でのセレモニー再開に興奮気味でした資料やお土産まで感謝
(実は2時間も遅刻で、心の中は恥ずかしい限りです。お許し有れ)
武田信義公の墓前でのお話が弾む、隣は祈念写真(藤岡氏)
午後は武田神社に正式参拝
胸に勝頼の墓所「鳴玉神社」の遺影を抱き
<父上信玄公・・440年の時空を超えて勝頼・・代参>
と呼びかけ:玉串を奉納!!
全員、剣花菱家紋の陣羽織を着ての参拝。
此も心霊写真に成っていた。陣羽織の剣花菱家紋実は金色なのに前の私の陣羽織と同じ白色に透写されていた。
私の前(神前)にも白く輝く球が投影。
今日のお宿は富士山の見える所に行こう!
天気も良いし最高だね。
メンバーに富士山を見たことが無い者がいまして此のコースにしました。
道中、写真を撮りながらドライブ
お宿での窓からは逆さ富士が見えて良い思い出になりました。
夕食のメニュウーはバイキング方式 お腹いっぱいご馳走を頂きました。
4月9日甲府「信玄公生誕500年祭記念イベントに参加」
会場では前日お会いした韮崎の「武田の里を守る会」の皆さまに再会
武田花押の会の方達にも挨拶(以前高木さんと一緒に四国の武田氏について調査に来た「内田孝」さんに会う為でしたが今日は不在とのこと、花押の会の会長さんです。
四国を調査する時、車で案内同行した藤岡さんと会場に行くが?、岩本弘毅氏が対応頂いた。
内田氏の紹介で勝頼の墓所の扁額を書家の(C水研石敏俔書)氏(第15代武田流花押伝承者)に書いて頂いた事がある。
会場の写真です。甲府駅前よっちょばれ広場にて。
会場での歴史映像「信茂と勝頼」が上映された。
小山田信茂映像コンテンツ「信茂と勝頼」の最終章上映。昼に一話から4話が放映された。
「信茂と勝頼」出演者トークショー
壇上 長崎知事、小林市長、脚本:三谷昌登様、
信茂役:後藤順平様(ジャルジャル)、勝頼役:植木祥平様
*都留市長の挨拶文が紹介された。
制作目的: 信茂を新たな見方で映像を制作し、地域間の微妙な感情のすれ違いを無くして信玄公の生誕を祝す機会にしたい。
甲府駅北口会場
信茂は小山田信茂顕彰会の方々、対し勝頼は武田勝頼土佐の会の方々それぞれの応援に駆けつけた次第であります。
裏切り者の汚名を晴らす為・・・・またまた武田を滅ぼした愚弄の武将の汚名を晴らす為土佐から参上!
それぞれの歴史には、隠された秘密があり・・今其の秘密を解き明かす事の出来る時代に成ったのであります。
両雄の名誉挽回を果たそうと、後は作戦談義と大月市まで同行しました。
武田土佐の会との交流 18:00〜21:00頃まで浜野屋にて
小山田信茂顕彰会: 松本主宰、小俣会長、武田副会長、溝口副会長、島崎副会長
武田勝頼土佐の会: 岡林会長 藤岡安道伊予アドバイザー 山ア(女性)会員 山ア・・会員
帰ってから小俣氏にメールで送った「信茂と勝頼」の真相はこうでは無いかと送ったメールから
私の私見として以下に述べさせて頂きます。
・勝頼をと言うよりは土佐まで同行した信勝、又は甲斐武田家の血統を残したいと家臣一同考えたと思います。一つ
・当初真田の郷、岩櫃城に逃げると決定した、此が真実で、岩殿城に変更したのはおとり作戦と私は思っております。二つ
・此からは、土屋氏や小山田氏達重臣達だけで、自分たちが犠牲になり戦を終結させ、武田の血統を守る為に影武者を造り演出したと思います。三つ
・女子供達が逃げられたのに信勝は何故逃げなかったのか、味方おも欺いた行動だったと思います。終結の場所「天目山」が必要だったと思います。四つ
故に、武田は鎌倉時代に土佐に地頭として武田信義の孫、一条次郎忠頼の子「秋通」を頼朝に因って派遣され後の香宗我部氏(長宗我部氏の弟)となっており、土佐の武田家系図には「香宗を頼る」と書かれて居ます。早い段階で土佐に逃れ長宗我部氏と共に再興を考えております。
長宗我部氏は関ヶ原で西軍に組みして改易と成り夢は潰えた思います。以後は歴史の影でひっそりと今日まで潜んでいたと思います。
*以上から考えても小山田信繁は逆臣(裏切り者)ではありません、むしろ(替え玉作戦)と、武田家(勝頼落人伝説)の真実が明らかになれば、其れは証明できると信じております。
以上のストーリーで映像が作られる時を切望しております。松本氏にも宜しくお伝え下さい。
何はともあれ、友情の証が今後を占う事を期待しましてお礼とご挨拶と致します。
武田勝頼土佐の会 会長 岡林照壽
4月10日(日)大月市を後に早朝出発
駿河の武田氏吉田町片岡町片岡「小山城」
大井川を挟んで武田家と徳川家が対峙した城「小山城」を探索
勘助井戸
続いて臨済宗妙心寺派「龍光寺」
突然の訪問で失礼しました。
丁度檀家さんの法要の最中で、住職さんと記念写真しか撮れませんでした。
帰ってからお手紙や資料を送らせて頂きました。
この龍光寺私の歴史小説「武田勝頼土佐に生く」の中では女子供達が隠れた寺で、後日勝頼達が合流して、船で土佐に吉田港から出発する場面が出てきますが、その場所です。
情報は駿河武田家の武田・・・氏から頂きました。
住職さんとの写真は「心霊写真」と成りました。
旅の最後に私と住職の足元に、武田家の御魂が歓迎してくれました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この旅は10数年の甲斐武田家と土佐武田家の交流の証です。
仲を取り持った「宇宙桜のひょうたん桜と今は亡き高木智朗氏」
桜に友情の証を感謝! 高木氏に哀悼の誠を捧げます。
韮崎市 武田の里を守る会(旧 勝頼新府にらさきの会)
大月市 小山田信茂顕彰会
仁淀川町 武田勝頼土佐の会
上記三団体の連携で「信玄公生誕500年祭事業」は終わり
令和4年(2022)4月7〜10日 報告 岡林照壽
2022年4月8日高遠城
高遠桜で有名、勝頼が生まれ城主だった城。
勝頼の弟、仁科盛信が武田家最後の激戦で玉砕した城です。
桜はまだ三分咲きと言う所でした。長野県の天然記念物「固有種で江戸彼岸桜」
今回調査に参加したメンバー武田勝頼土佐の会の会員達。
仁淀川町の「ひょうたん桜」と同じ蕾がひょうたんの形をしています。
勝頼達が落ち延びる時、桜の種を何らかの形で土佐まで持ってきたと考えられる。
鳳凰山願成寺にて、韮崎の「武田の里を守る会」の歓迎セレモニー
甲斐武田家発祥の地、武田信義が近くの武田八幡宮で元服式を行い神社を再建したと伝わって居る。
勝頼は甲斐を落ち延びる時御神体の「御正体」新羅三郎義光から武田信義まで4代12人の御魂を持ち出して土佐の仁淀川町大崎、大崎八幡宮に天正14年建立した時に奉納したと伝わる。
なお、武田八幡宮は今年創建1200年と大きな節目だそうだ。
願成寺山門の横に植えられた「ひょうたん桜」宇宙桜(桜は終わって葉桜になっていた)
写真後ろの桜ですが高さ5m位に育っています。
願成寺境内にある、武田信義の墓前で武田の里を守る会小林会長と一緒に写真
韮崎市民交流センターで桜の交歓会の時同席した方です。
下の写真はひょうたん桜に再開した記念写真樹高5m以上かと思います。
平成24年に韮崎で桜の交歓会を行った時を思い出します。
ひょうたん桜は語る リンク平成24年のブログ
平成24年のブログです前列右端が当時の小林さんです。
駐車場でのセレモニー再開に興奮気味でした資料やお土産まで感謝
(実は2時間も遅刻で、心の中は恥ずかしい限りです。お許し有れ)
武田信義公の墓前でのお話が弾む、隣は祈念写真(藤岡氏)
午後は武田神社に正式参拝
胸に勝頼の墓所「鳴玉神社」の遺影を抱き
<父上信玄公・・440年の時空を超えて勝頼・・代参>
と呼びかけ:玉串を奉納!!
全員、剣花菱家紋の陣羽織を着ての参拝。
此も心霊写真に成っていた。陣羽織の剣花菱家紋実は金色なのに前の私の陣羽織と同じ白色に透写されていた。
私の前(神前)にも白く輝く球が投影。
今日のお宿は富士山の見える所に行こう!
天気も良いし最高だね。
メンバーに富士山を見たことが無い者がいまして此のコースにしました。
道中、写真を撮りながらドライブ
お宿での窓からは逆さ富士が見えて良い思い出になりました。
夕食のメニュウーはバイキング方式 お腹いっぱいご馳走を頂きました。
4月9日甲府「信玄公生誕500年祭記念イベントに参加」
会場では前日お会いした韮崎の「武田の里を守る会」の皆さまに再会
武田花押の会の方達にも挨拶(以前高木さんと一緒に四国の武田氏について調査に来た「内田孝」さんに会う為でしたが今日は不在とのこと、花押の会の会長さんです。
四国を調査する時、車で案内同行した藤岡さんと会場に行くが?、岩本弘毅氏が対応頂いた。
内田氏の紹介で勝頼の墓所の扁額を書家の(C水研石敏俔書)氏(第15代武田流花押伝承者)に書いて頂いた事がある。
会場の写真です。甲府駅前よっちょばれ広場にて。
会場での歴史映像「信茂と勝頼」が上映された。
小山田信茂映像コンテンツ「信茂と勝頼」の最終章上映。昼に一話から4話が放映された。
「信茂と勝頼」出演者トークショー
壇上 長崎知事、小林市長、脚本:三谷昌登様、
信茂役:後藤順平様(ジャルジャル)、勝頼役:植木祥平様
*都留市長の挨拶文が紹介された。
制作目的: 信茂を新たな見方で映像を制作し、地域間の微妙な感情のすれ違いを無くして信玄公の生誕を祝す機会にしたい。
甲府駅北口会場
信茂は小山田信茂顕彰会の方々、対し勝頼は武田勝頼土佐の会の方々それぞれの応援に駆けつけた次第であります。
裏切り者の汚名を晴らす為・・・・またまた武田を滅ぼした愚弄の武将の汚名を晴らす為土佐から参上!
それぞれの歴史には、隠された秘密があり・・今其の秘密を解き明かす事の出来る時代に成ったのであります。
両雄の名誉挽回を果たそうと、後は作戦談義と大月市まで同行しました。
武田土佐の会との交流 18:00〜21:00頃まで浜野屋にて
小山田信茂顕彰会: 松本主宰、小俣会長、武田副会長、溝口副会長、島崎副会長
武田勝頼土佐の会: 岡林会長 藤岡安道伊予アドバイザー 山ア(女性)会員 山ア・・会員
帰ってから小俣氏にメールで送った「信茂と勝頼」の真相はこうでは無いかと送ったメールから
私の私見として以下に述べさせて頂きます。
・勝頼をと言うよりは土佐まで同行した信勝、又は甲斐武田家の血統を残したいと家臣一同考えたと思います。一つ
・当初真田の郷、岩櫃城に逃げると決定した、此が真実で、岩殿城に変更したのはおとり作戦と私は思っております。二つ
・此からは、土屋氏や小山田氏達重臣達だけで、自分たちが犠牲になり戦を終結させ、武田の血統を守る為に影武者を造り演出したと思います。三つ
・女子供達が逃げられたのに信勝は何故逃げなかったのか、味方おも欺いた行動だったと思います。終結の場所「天目山」が必要だったと思います。四つ
故に、武田は鎌倉時代に土佐に地頭として武田信義の孫、一条次郎忠頼の子「秋通」を頼朝に因って派遣され後の香宗我部氏(長宗我部氏の弟)となっており、土佐の武田家系図には「香宗を頼る」と書かれて居ます。早い段階で土佐に逃れ長宗我部氏と共に再興を考えております。
長宗我部氏は関ヶ原で西軍に組みして改易と成り夢は潰えた思います。以後は歴史の影でひっそりと今日まで潜んでいたと思います。
*以上から考えても小山田信繁は逆臣(裏切り者)ではありません、むしろ(替え玉作戦)と、武田家(勝頼落人伝説)の真実が明らかになれば、其れは証明できると信じております。
以上のストーリーで映像が作られる時を切望しております。松本氏にも宜しくお伝え下さい。
何はともあれ、友情の証が今後を占う事を期待しましてお礼とご挨拶と致します。
武田勝頼土佐の会 会長 岡林照壽
4月10日(日)大月市を後に早朝出発
駿河の武田氏吉田町片岡町片岡「小山城」
大井川を挟んで武田家と徳川家が対峙した城「小山城」を探索
勘助井戸
続いて臨済宗妙心寺派「龍光寺」
突然の訪問で失礼しました。
丁度檀家さんの法要の最中で、住職さんと記念写真しか撮れませんでした。
帰ってからお手紙や資料を送らせて頂きました。
この龍光寺私の歴史小説「武田勝頼土佐に生く」の中では女子供達が隠れた寺で、後日勝頼達が合流して、船で土佐に吉田港から出発する場面が出てきますが、その場所です。
情報は駿河武田家の武田・・・氏から頂きました。
住職さんとの写真は「心霊写真」と成りました。
旅の最後に私と住職の足元に、武田家の御魂が歓迎してくれました。
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この旅は10数年の甲斐武田家と土佐武田家の交流の証です。
仲を取り持った「宇宙桜のひょうたん桜と今は亡き高木智朗氏」
桜に友情の証を感謝! 高木氏に哀悼の誠を捧げます。
韮崎市 武田の里を守る会(旧 勝頼新府にらさきの会)
大月市 小山田信茂顕彰会
仁淀川町 武田勝頼土佐の会
上記三団体の連携で「信玄公生誕500年祭事業」は終わり
令和4年(2022)4月7〜10日 報告 岡林照壽