🌸同日に文化財調査が行われたのは、寺村の観音堂です。🌸
2月18日は寺村観音堂のご縁日でもあり、開帳も行われます。(お寺の背後には武田勝頼の三男である正晴の墓と稲荷神社があります)
地元では観音様と呼ばれ親しまれております。
古くには諏訪様と呼ばれていたとのこと、このお寺が再建されるまではそのような事もあったと考えています。
現在の観音堂となる前は、
「流光山成福寺(りゅうこうざんせいふくじ」とされ、
長宗我部地検帳(国重要文化財)には成福寺と記されており、
さらに、土佐に残る3つの武田系図からもこの寺は武田勝頼により
天正13年(1585年)菩提寺として建立されたものだとされております。
仏像「聖観音立像(平安後期のもの)仁淀川町文化財指定」は勝頼が携えて来たご神体の1つだと伝わります。✨
✨ありがたくも、
ご縁で以前からこの場所を紹介をさせていただいておりました、
シンガーソングライターの菊池由布子さんからは、歌の奉納を
さらに、龍笛奏者の梅田恵様と、ご友人の仏師である吉田沙織様、ご両名による龍笛の奉納なども
いただき、なんと麗しくも厳かな響きで寺に響き渡り感激です。🎵
ご三名の演奏を心よろ感謝申し上げます!
🎸
歌詞にも気持ちが込められており、それを画像でお伝えできないのが残念です、ギターの弾き方も雰囲気にとても合っておりました。
🐲龍笛による雅楽の奏上。🐲
まさに龍の音、お二人の息が合って、凛とした厳かな雰囲気になり、
素敵な奉納をされました。皆様には感謝申し上げます。
ありがとうござました!!!(人''▽`)ありがとうございます☆
🔸この寺と武田勝頼にまつわることを、ご紹介
諏訪の観音院の中島住職様の調査で分かったこと
🔷お寺の名前の一致「龍光山正福寺=流光山成福寺」
🔷勝頼の母君の戒名の一致「乾福寺殿梅巖妙香大禅定尼」
諏訪の龍光山観音院は、昔は「龍光山正福寺」という名で存在してありました。
地元の庇護が受けられなくなった時代に現在の地から、川岸の駒沢という地に移転しております。
そしてそこで新たに「龍光山昌福寺」という寺を建立しました。
それで現在のお堂は、その時の昌福寺が管理祈願所として存在していました。
(観音院も昌福寺もご本尊様は同じ十一面観音です。)
正福寺→昌福寺にしたのは音を残しつつも、区別をするために漢字は一字変えたとも考えられます。
更に現在、川岸の駒沢にある「龍光山昌福寺」には
武田勝頼から昌福寺住職に当てた「安堵状」が有り、
内容は「今まで昌福寺のものであったものは、これからも昌福寺のものである」
この安堵状は現在は岡谷市指定文化財になっております。
推測ですが、
@「龍光正福寺」とA「流光山成福寺」は
現在の呼ばれ方は @リュウコウザンショウフクジ Aリュウコウザンジョウフクジ
漢音・呉音を組み合わせて読むと@「リュウコウザンセイフクジ」 A「リュウコウザンセイフクジ」
--------(中島住職様が考察されました)
なんと同じ音になります。つまり寺の名前は一致しているとの考察になります。
考察というよりも、これは確かに同じであると言っても過言ではございません。
寺院の名称がキーワードとして繋がりを見せるとは、本当に驚くところでございます。
前回のブログでも書きましたが、
■諏訪の龍光山観音院(旧:正福寺)は勝頼の母君が過ごされた場所
■土佐の流光山成福寺にある厨子の1つは、諏訪にあるものと一セットの可能性がある考察
■「りゅうこうざん」という名称の一致、今回では寺の名前まで一致しました
諏訪の龍光山観音院は、昔は「龍光山正福寺」という名で存在してありました。
地元の庇護が受けられなくなった時代に現在の地から、川岸の駒沢という地に移転しております。
そしてそこで新たに「龍光山昌福寺」という寺を建立しました。
それで現在のお堂は、その時の昌福寺が管理祈願所として存在していました。
(観音院も昌福寺もご本尊様は同じ十一面観音です。)
正福寺→昌福寺にしたのは音を残しつつも、区別をするために漢字は一字変えたとも考えられます。
更に現在、川岸の駒沢にある「龍光山昌福寺」には
武田勝頼から昌福寺住職に当てた「安堵状」が有り、
内容は「今まで昌福寺のものであったものは、これからも昌福寺のものである」
この安堵状は現在は岡谷市指定文化財になっております。
推測ですが、
@「龍光正福寺」とA「流光山成福寺」は
現在の呼ばれ方は @リュウコウザンショウフクジ Aリュウコウザンジョウフクジ
漢音・呉音を組み合わせて読むと@「リュウコウザンセイフクジ」 A「リュウコウザンセイフクジ」
--------(中島住職様が考察されました)
なんと同じ音になります。つまり寺の名前は一致しているとの考察になります。
考察というよりも、これは確かに同じであると言っても過言ではございません。
寺院の名称がキーワードとして繋がりを見せるとは、本当に驚くところでございます。
前回のブログでも書きましたが、
■諏訪の龍光山観音院(旧:正福寺)は勝頼の母君が過ごされた場所
■土佐の流光山成福寺にある厨子の1つは、諏訪にあるものと一セットの可能性がある考察
■「りゅうこうざん」という名称の一致、今回では寺の名前まで一致しました
■土佐の寺は勝頼が建立したものである
■寺の建ってある場所が、諏訪の観音院(旧正福寺)の建ってある場所を彷彿とさせ、仁淀川を見下ろす風景が、諏訪湖を見下ろす風景によく似ている。
系図に出てくる寺名や戒名から、これだけでも多くの繋がりが見いだされます。
■寺の建ってある場所が、諏訪の観音院(旧正福寺)の建ってある場所を彷彿とさせ、仁淀川を見下ろす風景が、諏訪湖を見下ろす風景によく似ている。
系図に出てくる寺名や戒名から、これだけでも多くの繋がりが見いだされます。
また、これらの仏像は昔は神社のご神体であった可能性もあると言われております。そうですね、昔は神仏の区別は無かったと思いますので。
🔸系図とこの成福寺
武田家系図(土佐のです)には
人王始祖神武天皇より56代帝位・清和天皇から続く系図で代々鎮守府の将軍職ですが、
5代目の頼信が初めて甲斐守と出てきます。
7代目の義光(よしみつ)は武田家元祖也と書かれいて武田家の始祖とされております。
その義光(よしみつ)を武田の元祖として、
武田家として2代目の義清(よしきよ)は甲斐国を領し、
義清は甲斐武田家の元祖となります。源義清(みなもとのよしきょ)とも呼びます。
土佐の系図には、この義清に初めて「成福寺贈号に云」と記されております。
12代の盛行の次男である時信の時代に安芸(広島)へ移り活躍し、
再び甲斐に帰り繁栄は武田信玄公に至ると記されております。
その何れの者にも「成福寺贈号と云」と記されております。
甲斐武田流11代信成には「快川和尚謚号云」が数か所記されております。「成福寺贈号と云」
19代の晴信(武田信玄公のことです)(法性院機山信玄)。
新善行寺に葬る、と系図には記されております。一般的な説では恵林寺に葬られています。
戒名は、恵林寺殿機山玄公大居士神儀
20代は武田勝頼(諏訪四郎・伊那四郎・(土佐では佐内、それから矢野民部、大崎玄番尉と変名)
戒名には「成福」が含まれ戒名は右の通り「成福院殿栄秋道勝大居士」
さらに興味を引くのは、戒名の中に「秋道」と記されているからです。
秋道とは、勝頼が土佐に頼ったときの香宗我部家の初代が秋通(あきみち)であったので、
戒名にも示すことになったのかとも思います。
上記にキラキラで示した部分を説明します。
「成福寺贈号と云」と「快川謚号に云」に共通するのは、甲斐源氏の武田です。
簡単に言えば、鎌倉時代から続く成福寺も、快川和尚も、甲斐源氏武田のルーツであり、
古より嫡流として関係が深いからです。
それをさらに説明をするとですね。 なんと土佐に正当な末裔が続くのです。
成福寺は鎌倉にあり、貞永元年(1232年)、
鎌倉幕府の三代執権北條泰時の末男、北條泰次により成福寺は建立されております。
それから、血脈は子孫へ受け継がれ、
4代目の甲斐源氏の武田信義の時代に源頼朝を助けて、平家打倒に貢献しますが、勢力が大きくなりすぎて頼朝に力を削がれ、
子供の一条忠頼(武田嫡流)は鎌倉に呼び出され殺されます。
この一条忠頼(武田嫡流)の子供である秋通(武田嫡流)が1193年に土佐に派遣され、後の香宗我部家となり、
400年後勝頼が香宗我部池を頼り土佐に入ると系図に書かれています。✨
快川は快川 紹喜(かいせん じょうき)快川国師とも言われ、武田信玄に招かれて恵林寺に入寺した人物です。織田信長の子である信忠が甲斐に侵攻したときに武将の六角義定(ろっかく よしさだ)を匿ったことで他の僧侶たちち共に山門で炙り殺されることとなりました。
系図の最後に12名の戒名がありますが、土屋惣蔵が快川を含む4人の和尚に相談し報告されたことが記されており、信玄にも報告したのではないでしょうか?
上記から、この系図が恵林寺の快川国師が作成に関与された痕跡を匂わします。
❖ここの文化財は「聖観音立像」町指定文化財の詳細❖
文化財詳細
・(仁淀川町)吾川村寺村1559番地1の寺村観音堂に安置されている。
・像高 67.0センチメートル
・年代 平安時代’(高知女子大青木淳教授の調査を代表として関係各者からもそう評価されている)
・形状 ケヤキ材料一木造。宝髪、天冠台、白亳相をあしらわし、耳朶は環状とする。
彫眼。三道彫出。
左手は屈臀し、右手は垂下する。条帛、裳を付け、天衣を両膝に上下二段に渡し蓮肉上に立つ。
頭部に後世化仏を嵌込んだと思われる穴が10カ所見える。
・構造 頭体幹部を通じて一本造。白亳嵌入。両肩先を寄せ、両手首先及び両足首先をつぎ、更に天衣右側面をつぐ。
・欠失部 白亳。持物。
・後補部 両肩先。両手首先。漆箔